日刊早坂ノボル新聞

日々のよしなしごとを記しています。

◎『黄昏の城』のコンセプト

◎『黄昏の城』のコンセプト 

 この話の「城」とは、八戸根城(「ねじょう」と読む)のこと。
 八戸薩摩政栄(まさよし:まさひで)の人生は、譲歩につぐ譲歩の連続だった。
 北奥にあり、南部一族の正当な家柄にあるのだが、自らは養子で、かつかなり若い頃から目が不自由だった。記録には無いが、矢傷が原因でそうなったのではなさそうだから、純粋な眼疾で、白内障とか網膜症だろうと思われる。
 しかし、政栄は目が見えないが、周囲の情勢が良く見えていた。
 人望があり、周囲の信望は厚いが、しかし、自らは表に立つ者では無いと知っている。
 櫛引一族がすぐ近くに領を構えているが、天正期にはいざこざが絶えなかったこともある。
 もちろん、いざ打って出れば、周囲をなぎ倒すことも出来た。

 三戸南部家内の晴政・高信・信直の血肉を削るような抗争には関わらず、信直の窮地を幾度も救った。
 三戸で家督相続の会議が催された時には、南部家の後継に押す声が上がったが、これを固辞した。
 北信愛らは、政栄では操り難いと考え、信直を押し、結果的に信直が三戸南部の家督を継いだ。
 ただし、この時点では、三戸南部はあくまで北奥の地侍の一人に過ぎない。昔からこの地が南部家が支配されていたようなことが書かれたのは、藩政期になってから。
 まあ、ほとんどが作り話だ。
 「信直記」ですらもそういう「大王伝」のひとつで、信頼するには足りない。

 こういう政栄が絶対に譲らなかったことが娘のことだ。
 自身は養子で、子の弾正直栄も養子に迎えた者。なぜか八戸家には男児が生まれない。
 その政栄が愛情を注いだのが、末の娘だ。
 戦国時代の女性には、もちろん名はあったろうが、書き物には記されない。その時代の扱いはそうだった。
 (このため、『九戸戦始末記』では、この娘に「万」という仮称を与えてある。)
 政栄が娘のお万を与えたのは、七戸家国だった。
(ただし、『川嶋家文書』には別の夫の名前が記されている。)
 家国の正室九戸政実の娘なので、正室が二人だったのか、側室の扱いだったのかは分からない。
 だが、政栄の娘お万は、七戸家国からも深く愛された。
 家国は二戸宮野城に入場する際に、七戸城にお万と息子を残して行ったのだ。
 空城に妻子を残したら、すぐに攻め取られ、妻子を殺されてしまうのは明白だ。しかし、家国はそうした。
 この辺が阿吽の呼吸だろう。

 おそらく、家国が去った後、真っ先にこの城に向かったのは八戸政栄だった。城に来たのが舅の政栄だったので、城の方は無抵抗で門を開けた筈だ。
 後になって見れば、このことが絶対に必要な条件だった。

 宮野城が落ちると、南部信直は七郡の隅々まで派兵し、自らに従わなかった者を悉く誅殺した。
 政栄にとっての本当の勝負はおそらくこの時だったろう。
 政栄は「宮野が落城する前に、何ら抵抗することなく従った」ことを主張し、七戸城に残されていた娘と孫、家臣たちの助命を嘆願したのだ。
 相手は南部信直ではなく、おそらく上方の誰か有力な侍だったろう。

 さて、この時の政栄は腹の内で何を考えていたのだろうか。
 ここからが書き手の方の勝負どころだ。
 もし、上方侍に却下されたら、政栄は信直や上方軍と事を構えるつもりだったのかどうか。
 もし私なら、腹は決まっている。

 最後は歌舞伎みたいに大見得を切るところがあり、結果的に妻子の命は救われる。
 そして、九戸戦に関わった大半の侍(敵味方含め)の家が断絶しているのに、七戸は命脈を保つことになる。
 北信愛など、戦国で暗躍した策謀家は、三代持たずに消え去っているのにも関わらず、だ。
 この辺の立ち回りは、さすが戦国北奥の名将、八戸政栄だ。
 その後、根城南部氏は遠野に移封されるか、幕末まで残った。

 さて、ここまで骨組みが出来ていれば、あとは書くだけです。
 夢で指摘されたので、こちらもそろそろ着手することにしました。
 並行してあっちを書き、こっちを書きなので、いつまとまるかは 分かりませんが、まあ年内に五六本は終わるつもりです。

 夕日は沈もうとする時に、一瞬、ぱあっと光り輝く瞬間があります。根城南部にとっては、その最後のきらめきが八戸薩摩政栄だったというのが表題の意図です。