日刊早坂ノボル新聞

日々のよしなしごとを記しています。

(飯能)瀧不動にて

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息子が高校に合格したので、そのお礼のため、飯能の瀧不動にお参りしました。
当家では、私も妻もお不動さまにご縁を頂いているようで、説明の出来ない力を感じます。
飯能から秩父に掛けては、お不動さまが数多く祀られていますので、季節ごとに各所にお参りしています。

ここは今で言う、「パワースポット」のひとつです。
昨年、家族の間に不審事が続いた時も、お不動さま参りをしたら、ピタッと止まりました。

正直なところ、ここの仏様や七福神は、造形的に見ると少しチープな感じがします。
このため、最初は「観光目的の人よせ」の場所かと錯覚してしまいますが、足を踏み入れると、考えががらっと変わります。
とりわけ、日頃から直感が働く人や、幽霊をよく見る人は、ビンビンに感じるものがあるだろうと思います。

今回も私は、車から降りるなり左肩が重くなり始め、数分後には立っているのもしんどいくらいでした。
座って休もうとしたのですが、ベンチは小山の頂上にしかありませんので、我慢して手を合わせて回りました。
同行した妻に「俺はここに来ちゃいけないと言われているのかな」と呟くと、「そんなことはないよ」との答えです。
妻は私より敏感な性質で、神社・仏閣によっては、「ここは私が入っても良いところ」、「ここは入ってはダメなところ」を感じるらしく、自分が拒否されていると思う場所には一切足を踏み入れません。
私のほうは、これまでは別段どこに参拝しても違和感を感じたことがありませんでした。
「ワタシにはここは合うみたい。ものすごくテンションが上がる」
妻はニコニコしています。

ところで、金属や土で作られた像を飾るのは、別に像そのものを崇めているわけではなく、その姿を通して、仏さまや神さまに心で繋がろうとする目的によります。
要するに、造形物は「手段」であり、言わば電話の受話器と同じです。受話器には通信手段以外に意味は無く、大切なのは通話の内容のほう。
よって、その仏さまや神さまの造形(像)がどう作られているかは、あまり問題ではありません。
糸電話でも使いようによっては、十分な会話は出来ます。
それが「紙カップ」にしか見えない人には、会話は出来ませんね。

ひと回りお参りし、裏側の「意外に深い谷底」を覗いて見た後、私の左肩の重さは消えていました。
「なるほど。拒否されているわけではないわけだな」
このひとり言に、妻が「でしょ!」と答えました。

デジカメで何枚か写真を撮影しましたが、撮影時に画像の一部だけが何度も点滅しました。
左肩の重さのことと考え合わせると、たぶん、私に対して、何かしらのメッセージがあるのだろうと思います。
昨年は、「これ以上にない」というタイミングで、私の選ぶべき選択肢を示して頂きましたが、果たして今度はどういう意味があるのでしょうか。

初回時の雑多な印象に惑わされず、裏にある谷までしっかり回ると、人によっては感じるものがあるかもしれません。
初回は駐車場の入り口を探すのに少々迷うと思いますが、一度お参りに行かれてはどうでしょうか。

追記)瀧不動を遠景で撮影した写真は、お不動さまの前に妻が立っているところです。
連続撮影をしたのに、妻の姿が写っているのは数枚だけでした。
(もちろん、事実を知っているのは2人だけで、証明できる証拠は何もありません。当人が分かっていれば良い話ですので、念のため。)