日刊早坂ノボル新聞

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俄かには信じられない

「九戸戦始末記 北斗英雄伝」の5巻には、九戸政実が開城の条件として提示した内容を記してあります。
 開城の前夜、居並ぶ上方軍の武将に対し、九戸政実が求めたことは、「南部大膳(信直)の所領の安堵」でした。
 このことについて、読者の感想を聞くと、やはり「俄かには信じられない」「ここは創作では?」というものが多いようです。

 そりゃそうです。
 書いた本人ですら、いまだに信じられません。
 しかし、この出典は上方軍サイドで、北奥では利害関係の薄い者です。
 こういう、「得をしない者」の書く突飛な話には、何らかの真実が隠されていることが多いです。

 具体的には、九戸攻めの中核であった浅野長吉が周囲に漏らした言葉が、浅野家の家伝書に遺されており、これが「南部大膳の所領の安堵を求めた」ことの根拠となります。
 敵の領知保全を求める行為は、あまりに奇異なので、そのことがこの物語を書くきっかけとなった次第です。

 戦国当時の記録はほとんど残っておらず、今、その時代に起きたこととして知られているのは、それから70、80年くらい後、徳川幕府が安定した頃になってから書かれたものです。
 当然のことですが、各藩にとって都合の悪いことは、削除されたり粉飾されています。
 このため、周知の通り、盛岡と弘前で書かれたことは、互いにまったく異なっています。 
 すなわち、各々が各々にとって都合の良いように藩史を構成したということです。

 面白いのは、その時代でも、「歴史の書き換え」が極めて「お役所仕事」的に行われていることです。
 岩手県内の市町村を回り、郷土史をひも解いてみると、必ずその地の人名録が記されています。
 このうち、戦国末期頃の地侍を見ると、「信義」や「直義」という諱(いみな)を持つ人が、沢山います。
 解説を読むと、いずれも「南部信直の名にあやかって付けられた諱」と記されています。
 これがあまりにも多いのです。
 甚だしいのは、南部信直よりも先に生まれた人まで、そのように書かれていること。
 すなわち、それは明らかにウソです。
 自分より後から生まれた者の名から「1字を貰って」諱を名乗ることはありません。
 要するに、藩史や藩士録を作成する際に、判で押したように加筆されたことを示すものです。
 担当侍が書写の際にミスったのです。

 
 ここで狂句をひとつ。 
 「南部には信義直義ばかりなり」
 これが歴史なるものの実像です。
 それでも、これは「南部家の権威を高める」という明白な意図によるものなので、実に分かりよいです。

 これに比べると、冒頭で記した「九戸政実南部信直の所領安堵を求めた」がどれだけ奇異なものかが分かります。
 その記述で、得をする人はただの1人もいないのです。

 当時の九戸直轄領に住んでいた民が、推定で1万数千人。
 これに、七戸や櫛引その他を合わせると、3万人から4万人。もちろん、正確な推定は不可能なので、大雑把な数値です。
 宮野(九戸)城で死んだとされる伝説上の人数が5千人。
 秋田領で「元は九戸家臣」とされる家系が2千から3千の間で、津軽が1千系。これは市町村誌記載の話を大雑把に積算したもの。
 下士のかなりの数が「領外に逃げていた」ことになります。
 かたや、上方軍の主要な軍監(蒲生氏郷や浅野長吉)が記したとされる「還住令」の信憑性が確かだと仮定すると、九戸領の一般民の多くが戦を避け、山の中で難を避けたことになります。
(この「還住令」も盛岡藩によって後代に書写されたものです。)

 いずれにせよ、どの角度から見ても、まったく数が合いません。
 ただ、ひとつ言えることは、盛岡藩時代に記された九戸戦記ほど「人が死んでいない」のではないかということです。

 自分が戦ってきた敵を「救え」と言う。
 下士・領民はそれほど死んでいない。
 これほどシビレさせられることはありません。
 本書は、この2つの謎を解こうとする意図で書かれたものです。

 物語をまとめていて教訓になったのは、「正史」の記述や歴史家の言葉をうのみにするな、ということです。
 そこに書いてあるのは、嘘と誇張です。