日刊早坂ノボル新聞

日々のよしなしごとを記しています。

夢の話 第397夜 道を塞ぐ男

今朝の6時ごろに観ていた夢です。

知り合いの編集者から連絡が来た。
「すぐに1本書いてくれる?急で悪いけど、明日取材に行ってくれないか。カメラマンはこっちで手配するから、今日のうちに現地に入ってね」
有無を言わさぬ口調だ。
「それじゃ、料金は割増だよ。はは。場所はどこ?」
高田馬場
なあんだ、と言いたいところだが、今、オレはF県の深い山の中にいた。
もう午後なので、これから来るまで帰ると、夜中になってしまう。
「どうにか間に合うとは思う」

翌日。約束の時間ぎりぎりになり電話が来た。
「スマン。途中でカメラマンの車が動かなくなったらしい。撮影もお前がやってくれ」
「おいおい。オレは安いデジカメしか持ってないぞ」
「本人だと分かれば大丈夫だよ。あとはこっちで」
あと15分しかないとなれば、文句を言ってもしょうがない。
オレは約束の場所に向かうことにした。
そこは高田馬場の駅を出て、早稲田通りを5分ほど進んだ場所だった。

その場所に近づくと、歩道を塞いで立っている男がいた。
木村さんだった。
全盛時の「ラッシャー木村」は、これくらい大きく、威圧感があったよな。

(してみると、これは夢だ。木村さんはあの頃のままだものな。)

すぐに木村さんの前に行き挨拶をする。
「こんにちは。私がライターです。カメラマンが事故で遅くなるようですので、撮影も私がします」
「よろしく」
「私は昔、まさにこの場所で木村さんにお会いしたことがあります。まだ学生の頃で、大学からの帰り道にここを通ったら、木村さんが道を塞いで立っていました。木村さんは自分がこの学生を通れないようにしているとお考えになられたようで、『あ。スマン』と体を譲ってくれたのです」
「そんなことがあったの?じゃあ、初対面じゃないね」
「少なくとも私の方ではそうですね」

インタビューの会場はレンタルの会議室だった。
取材の内容は、「あの一戦」に及んでの心境についてだった。
「あの一戦」とは、もちろん、最初の猪木戦のことだ。
新日本プロレス国際プロレスの代表とも言うべき、2人のエースが対戦した試合のことだった。

あの試合では、猪木選手がひたすら木村さんの額を殴り続けてKOした。
背景を知らないヤツは、「やっぱり猪木が強かった」と思ったことだろう。
ところが、観る者はきちんと観ている。
あの頃の国際プロレスは、巡業に次ぐ巡業の日々を送っており、かつての全女に匹敵するほどの試合数を
こなしていたはずだ。年間130試合?160試合?数え切れない試合数だ。
移動もあるので、要するに「毎日」という意味だろう。
その巡業の多くで、木村さんは「金網デスマッチ」をこなしていたのだ。

しかも、戦う相手はジプシ-・ジョーみたいな連中だ。
ジプシー・ジョーなんかは、スポーツマン的なスタンスの対極にある。、
派手さは無いが、ナチュラルにケンカが強くてしぶといタイプだ。
木村さんは猪木戦の直前にもデスマッチをして、その試合で腰に重傷を負っていたはずだ。

オレは早速、その話を切り出した。
「普通の者なら入院してます。現にあの試合の後で、腰の治療で入院されたじゃないですか。試合会場に来られたことすら考えられない状態なのに、リングに立った。あの時はどんなことを考えていたのですか」
木村さんはしばらくの間黙っていたが、ゆっくりと口を開いた。
「俺たちは観客に試合を見せるのを仕事にしている。だから裏側の話はあまりすべきではないと思う。だが、君はその辺もきちんとわきまえているだろうと思うから、少しだけなら言っても良いだろ」
「はい」
「特に面白いことも、考えていたこともないよ。俺は興業に穴を開けないことだけを考えていたのだ。もし俺が欠場したら、会場に来た者が暴動を起こしかねない。その結果、新日の会社が潰れてしまうかもしれん。もちろん、会社の浮沈を賭けて交流戦に臨んだ俺たちの方もだ」
「でも、名前をコールされた時には既にボロボロですよね」
木村さんは、ここで声を上げて笑った。
「困ったのは猪木のほうだよ。対戦相手がとても戦える状態にないことは、一瞥すれば分かる。あの男は、一体どうやって試合を成り立たせるか、ほとほと困ったことだろう」
「それであの流れに?」
猪木選手は、まったくレスリングを仕掛けず、ひたすら木村選手の額を殴り続けたのだ。
それもそうだ。リングに転んだら、木村選手は二度と起きて来られないような状態だった。

「相手がトライアスロンのレースを終わったばかりなら、たとえごく普通の人でも、ボブ・サップに勝てる可能性があります。何せ、立っていられない状態でしょうからね。でも、それで勝った負けたを言うのは、ちょっと違う気がしますね」
「しかし、その相手に負ける可能性もある。ぎっくり腰のオヤジに叩きのめされたら、立つ瀬がない。猪木だって、頭の中では色んなことを考えただろうよ」

木村さんの話は、オレが想像した通りだった。
それもその筈だ。これはオレの夢の中の話だものな。

「木村さん。80年代のプロレスと言えば、馬場、猪木、木村です。オレはその3人の中で一番強かったのは、木村さんだと思ってます。野球に例えれば、160試合以上戦って6割弱の勝率を納めた者が優勝で、1試合1試合のどれかに勝った者ではない。同じ条件で戦って、初めて優劣を論じることが出来るのです。レバタラはありませんが、金網デスマッチを80戦した直後に試合をすれば、木村さんが誰よりも強い」
この人は現実にそうしていたから、きちんとした裏付けがある。

その瞬間に、木村さんの視線が厳しくなった。
「お前ね。人生だって勝負事だって、ハンデはつきものだ。ハンデがあるからと言って、四の五の言うな。各々が目の前の現実と戦うしかないんだよ。それが嫌ならとっとと死んでしまえ」
それもそうだ。
「お客さん」目線で話すのではなく、現実にそれを実行していた男の言葉には、さすがに力がある。
この人は本物の男だったよな。

取材が終わり、木村さんが立ち去った後で、オレは木村さんの姿を撮影し忘れたことに気がついた。
「イケネ。写真を撮ってねえや」
すると、ほんの数秒後に、木村さんが再び現れた。
「あんたが写真を撮るのを忘れているのに気づいたんだよ。後で困らんように戻って来た」

参ったな。
何だか、無性に泣けて来た。

ここで覚醒。

全盛時の木村さんに早稲田通りで遭遇したのは事実です。
舗道の広さは4、5辰△辰燭呂困覆里法道を完全に塞いでいました。
たぶん、威圧感のなせる業です。
晩年のマイクパフォーマンスを見慣れた人には想像できない話だろうと思います。

木村さんが亡くなったのは、5月のちょうど今頃で、24日ではなかったかと記憶しています。
そのことを記憶していたので、この夢を観たのでしょう。

小学生の時に、祖父が「プロレスを見に行くから一緒に来い」と言うので、ついて行ったことがあります。会場はなんと隣町で、8キロから10キロくらい歩かされました。
その時にも、まだデビュー数年の木村さんが戦っていました。