◎嘘と方便
「嘘」の定義は概ねこれ。
1 事実でないこと。また、人をだますために言う、事実とは違う言葉。偽 (いつわ) り。
2 正しくないこと。誤り。
3 適切でないこと。望ましくないこと。
「方便」の定義はこう。
1 仏教で、悟りへ近づく方法、あるいは悟りに近づかせる方法のこと。
2 仏教以外の物事について導く・説明するための手法のこと。
3 上記の意味がさらに転じて、都合のよいさまを悪く言う場合にも用いられる。
一般によく使われる「嘘も方便」とは、
目的を遂げるためには、時には嘘をつくことも必要になるということ。
最近、ある宗教団体の長が、こういうことを言っていたらしい。
「(ある特定の人物)の守護霊にインタビューした」
え? 耳を疑う言葉だ。
「インタビューした」ということは、「守護霊」に個人格があるという意味だ。
あの世に渡った時点で、個人の殻は消失して集合霊(または魂)の一部になってしまう。
すなわち、ここでは、せっかく彼岸に渡った霊が、わざわざもう一度分裂して、生前の姿に近い存在になっていることになる。
あり得ない。
こういう虚偽を言うことで、信者が悟りに近付くのか?
とてもそうは思えない。
すなわち、これは「方便」ではなく「嘘」。
まったくの作り話だろう。
別の「霊感師」の話だが、その者は「亡くなった肉親が守ってくれる」「助けてくれる」という言葉を多用する。
「死んだお祖父さんが、もし彼岸に渡っているなら、孫を助けるために姿を現したりしない。もしそれが事実なら、お祖父さんはあの世に行けていない」
すなわち、そのお祖父さんは「この世に留まる悪霊」という意味だ。
「守護霊インタビュー」もそれと変わらぬ言い回しで、「あの世」観が根本から誤っているのだと思う。
要するに、実際には何ひとつ見えていないのだ。
第六感が働く人には、物理的に説明の出来ない現象が多く現れる。
写真に不可思議なものが勝手に写るし、音や声が本人だけでなく傍らに居る人も聞こえる。
もし、それが「守護霊とインタビューする」くらいの感度に至ったら、日常生活を送るのは大変だろう。
こういう人に対する、最初の質問はこれだ。
「これまで、自分自身で何枚くらいの心霊写真を撮影しましたか?」
この問いに答えられた「霊能者」はこれまで一人も居ない。
能書きは言うが、自分では撮れないのだ。
ま、信仰は「自分自身」もしくは「自分たち」の心の中にあるものなので、何を信じようと勝手だ。
「インタビューした」と言うのは、まさに「表現の自由」「信仰の自由」だが、それが生きている人間の名誉を傷つろうける内容であれば、当然、犯罪となる(誣告や名誉毀損)。
特定の人物の名前を出し、その人の「守護霊」を引き合いに出すことは、実は「そいつより自分の霊格が上」だということ以上のことを言っていない。
「誰それの守護霊と話をした」は、いかにも詐欺師や政治家が使いそうなレトリックだ。
ま、どうでもよい話だ。こんなことを真面目に考えても仕方が無い。
霊魂の状態は、植物に例えると分かりやすい。
生きている人間は、種の状態だ。肉体という殻を持ち、1個1個が独立した存在だ、
その殻が壊れ、芽を出すと、それまでの種とはまったく別の存在になる。
葉を出し、枝を伸ばし、樹木に成長するわけだ。
そうして、いずれは花を咲かせ、種を産む。
「守護霊が個人格を持つ」ことは、樹木がわざわざ種に近いかたちをとって、種の前に現れることを意味する。
樹木にとっては、まったく意味の無い話だ。
種は樹木にとって、ごく一時期の仮の姿だからだ。
種は自分で殻を割って成長する必要があるのだから、守護する必要すらなく、見守っていればよい。
あらゆる喜怒哀楽は、殻を割れば、総て昇華される。
こういうのが「方便」だ。
かたちを論じることにはあまり意味が無いわけだが、「守護霊」は信仰(宗教)が作り出したもので、実態とはかなり違うと思う。