日刊早坂ノボル新聞

日々のよしなしごとを記しています。

◎釜沢用水

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◎釜沢用水
 釜沢館主・小笠原重清については、史実の上では、「九戸一揆の際に不参だったので、南部信直により攻め滅ぼされた」とのみ伝えられます。この他には、「幽霊になって出た」などの後日談が伝説としてありますが、もちろん、作り話。南部信直にまつわる話は、大体が筆の立つ役人の手による作文です。
 16世紀の半ば頃、周囲が合戦を繰り広げている最中、小笠原信清と重清親子は、ひたすら荒地の開墾と用水路の工事を行っていました。
 ちょうど時期的には、飢饉が繰り返し起きていた頃で、6月まで霙が降り、9月には初雪が降った、ような状況だったらしい。
 農作物が収穫できなければ、生きるためには他所のものを奪うしか手が無く、他領に攻め入った。これが戦国時代の基盤的状況です。
 ところが、地侍の中には、少数派ながら、「作物を作れる環境」を守れば、戦の必要が無くなると考えた侍がいました。
 この代表が、小笠原重清や、沼宮内民部。(他には、櫛引一族の領地にも水利や開墾の跡があります。)
 小笠原重清が、九戸一揆の際に戦に参加しなかったのは、おそらくこの哲学によるもので、同じ小笠原氏を本姓とする九戸政実の側にも参陣しませんでした。
 「争っている暇があったら、畑を耕せ」というのが、本意だったのだろうと思います。

 もちろん、そのことは争っている当事者からすれば腹立たしい限りです。
 南部信直は、羽柴秀吉が小田原討伐の後で用いたレトリックを流用して、「不参だったから改易にする」と告知します。
 もちろん、勝手な言い分ですから、重清は応じません。
 すると、信直は重清の言い分を聞かず、大光寺左衛門を差し向け、重清を滅ぼしたのです。
 「不参」は口実で、実際は、地侍から領地を取り上げ、家来に褒賞として与えることが念頭にあったのだろうと思われます。
 この「不参」を理由として滅ぼされた地侍が他にいないことで、それと分かりますが、その他にも、この釜沢が「良い土地だった」ということも重要な理由だったのでしょう。

 釜沢館は高台の上にあるのですが、そこから流れ落ちる水は、馬渕川水系にただ流れ落ちるだけだったのを、高台を回るように水路をつくり、そこから周囲の荒地に水をめぐらせた。
 これが釜沢用水で、当時の釜沢は今より人口が多かったと考えられます。

 ストーリーを進める作業を停めて良かったです。
 これで謎が解けました。
 小笠原重清はけして頑迷だったのではなく、彼が生きていた時代よりも先に進み過ぎていたのです。