日刊早坂ノボル新聞

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◎『死の国』ノート その4 自我の呪縛

◎『死の国』ノート その4 自我の呪縛
■幽霊はどこに行く
(問い)「幽界に留まり、自我を捨てることの出来ぬ魂のことが幽霊だという話ですが、そういった霊たちはどうなるのですか。そのまま悪霊や怨霊となって、そこに留まり続けるのでしょうか」
(神谷)「幽霊が自己の作り出した妄執を捨て、霊界に帰還できるようになるかどうかは、その霊の持つこだわりの深さにかかっています。このため、長くそのままの状態でいる者もいれば、自我を解消出来る者もいます。いずれにせよ、囚われの念をうまく捨てられるかどうかということです」
(問い)「仮に生前の欲望や恨みそねみに囚われたままでいると、その幽霊はどうなりますか」
(神谷)「長い年月の間には、幽霊も分解し、バラバラの霊素に還ります。ひとが自己を認識するのは肉体の所在を通じて、すなわち体の痛みや喜びを元に自身を認識するわけです。これが無くなると、自我そのものが希薄になります。このため、次第に生前の自我は消滅に向かいます。その過程で、似たような幽霊と合わさることもあります。同じような怨念を持つ魂は重なりやすい存在です」
(問い)「そうすると、霊素(霊気)には霊界の海から分かれ出たものと、幽霊が消滅分解して生じたものがあるわけですね」
(神谷)「そうです。ただし、幽霊は自身に極力近いものが寄り集まろうとします。これが悪霊で、多く一人に見えますが、実際には複数がひとつになっていることが多いのです」

■憑依は何故起きる
(問い)「幽霊は欲望や怨念に囚われているが、しかし、そんな自分をうまく認識できない。そんな存在だということですが、幽霊は幽霊同士だけでなく、生きている者にも関わることがあるようです。それは何故ですか。あるいは、言葉を替えると、それはどのように起きるのですか」
(神谷)「幽霊、もしくは悪霊は、自分たちだけで凝り固まるだけでなく、生者とも一体になろうとすることがあります。同じような感情を抱き、同じような邪な念に囚われていると、悪霊はその匂いに近寄って来ます。魂にはひとつに集まろうとする習性があるからです。幽霊が生者の魂に寄り添うことを、一般には憑依と呼びます」
(問い)「憑依は昔から語られていますね」
(神谷)「映画や小説に出て来るものと実際はかなり違います。幽霊・悪霊は既に肉体を失っているので、物事を合理的に考える頭がありません。このため、幽霊・悪霊は『こいつに悪さしてやろう』とか、『こいつを呪ってやろう』などとは考えません。考えられないのです。ただ自分に似ており、居心地が良いから引き寄せられるだけです」
(問い)「では、取り憑こうとするのではなく・・・」
(神谷)「同一化しようとするのです。前にひとの心を音叉に例えたと思いますが、共鳴することで、複数の音叉から発せられた音がひとつになります。それと同じで、悪霊は共鳴できる相手に寄り添うと、自我をひとつにします」
(問い)「ひとに取り憑くのではなく、魂を合体させ、自分自身だと認識するわけですね」
(神谷)「J.W.キャンベルの小説『影が行く』には、他の生物を消化して細胞を模倣する宇宙生物が登場します。人間に取りつくと、その宇宙生物は相手の肉体だけでなく知識や経験までを吸収して、相手そのものに化けるのです。悪霊による憑依も、それをイメージすると分かりよいと思います。正確には、複数の自我がひとつに重なるわけです」

(問い)「なるほど。総ては『魂の循環』サイクルの中で起きているわけですね」
(神谷)「これまで語られて来た死後の姿は、その大半がひとりの魂が次々に生まれ替わったり、天国や地獄に行ったりするというものです。しかし、それは決定的に誤っています。ひとが霊と呼んで来たものは、幽界の霊のことで、自我を保ったままの魂のことです。実際には、同じ自我がかたちを変え生まれ替わるのではなく、霊が分化したり、統合したりするプロセスの中のごくひと刹那の間に自我が生じるのです」