日刊早坂ノボル新聞

日々のよしなしごとを記しています。

◎死期を遅らせるための認識と方法について

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◎死期を遅らせるための認識と方法について
 半年以上前から、重大な危機の到来を予感・予測し、実際にそれが来たのだが、今回は何とか回避することが出来た。その間に考えたことや、死期を遅らせるために講じた手立てについて記して置く。これは、おそらく私と同じ状況に至る人が相当数いるだろうと思うからだ。

1)死期の迫った人が観る妄想
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 遠縁の金太郎さんは、末期癌で入院していたが、一時退院して家に戻った。金太郎さんが家の中に独りでいると、玄関からひとりの男が断り無く中に入って来た。その男の顔を見ると、到底この世の者とは思えない。金太郎さんはその男が「お迎え」だと考え、「俺はまだ行けない。もう少し待ってくれ」と言った。すると男は無言のまま家の外に出て行った。金太郎さんは、それから1年くらい生きた。
近所のご主人たち
 実家の近所のSさんは、晩年になり粗暴になった。突然、周りの物を壁やドアに投げ付けた。その数軒隣のKさんも、同じように粗暴になり、「こっちに来るな」と叫んで暴れた。二人はいずれも半年くらい後に死んだ。
I磴慮た「男」
 母が亡くなる1年くらい前に、父は「若い男が自分の許を訪れ、『奥さんを連れて行きます』と言った」と言い始めた。高齢でもあるため、周囲は父が認知症になり妄想を観ていると解釈した。
 父はその三十歳台と思しき男を母の浮気相手とみなし、ひと騒動になった。

 近隣住人にせよ父にせよ、いずれも高齢だったり死に間際だったりするので、「死期の迫った人が観る妄想」だろうと考えるのが普通だ。ところが、父のケースでは、母の没後、病気の進行を逆算して、その時期に何が起きていたかを測り、父が男に会った時点を重ねると、「進行の節目節目に男が現れている」ことが分かった。
 私はその男が現実に父の前に現れている可能性があると考えた。要するに、母への「お迎え」だ。
 「お迎え」は男性には女が、女性には男が来ることが多い。
 
 ちなみに、父は介護施設の部屋の窓をいつも少し開けている。父によると、「時々、小鳥が飛んで来て休んで行くからだ」とのこと。そんなことがあるわけがないので、私はおそらく父の妄想だと思っていた。
 ところが、父の部屋を訪れた際に、父が「ほら。今、小鳥が入って来た」と天井の灯りを指差した。その時、一瞬だが、私もその小鳥を見た。そこで三十分くらいかけてその小鳥を探したが見付からなかった。錯覚だろうが、私自身も見ているので、あながち「脳が作り出した幻影」とばかりは言い切れない。

2)お迎えを回避する手立て
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 母は病弱なひとで、人生の3~4割を病院で過ごした。結局、八十を過ぎるまで生きたが、健康に気を配ると共に、自分なりの「決まりごと」のようなものを持っていた。
 その例が「ひとりきりにならないこと」「(病院の)個室に入らないこと」。
 母は理由を語らなかったが、今、推察するに、おそらく「誰か」「何か」が来た時に「逃げ場が無くならないようにする」というように解釈できる。個室に入っている時に、入り口から「何か」が入って来たら、その「何か」が訪れる相手は一人しかいない。
 母は個室に移ったその日に亡くなった。

⊆身の過去の体験
 四年前に心臓の治療(6回目)を受けたが、術後、三週間後くらいにぶり返しが来た。
 その時、私は入院しており、ベッドに半身を起こして座っていた。
 すると、唐突に病室の入り口が開き、男が2人入って来た。男たちは真っ直ぐに私のベッドに近付いたが、一人はハンチング帽を被りジャケットを着た男で、もう一人はジャンパーを着た中年の男だった。
 私はその顔を一瞥して、その男たちが「この世の者ではない」ことを悟った。金太郎さんの時と同じで、何とも言えない薄気味悪さがあったのだ。生気がまったく無く、喜怒哀楽の感情も無い表情だ。
 二人が私に近付こうとするので、私は「こっちに来るな」と叫んだ。(これは郷里の近所のご主人が叫んだ内容とまったく同じだ。)
 手が届きそうになるくらいの距離まで来たが、男たちは何故かそこで止まっている。
 手を空中に当てて、首を捻っている。そこに壁のようなものがあって、入って来られないのだ。
 すると、男たちは背中を向けて去った。
 ちなみに、最近になり、その「壁のようなもの」とは、「黒いひと」の大型のやつで、私が「黒入道」と呼ぶものであると分かった。「黒いひと」「黒入道」は、過去に撮った画像にも残っている。

3)霊気の流れ
,寺や神社での気の流れ 
 神殿や本堂の前で写真を撮り始めたのは、偶然のきっかけからだ。
 たまたま正面にガラスがあったのだが、手を合わせようとすると、そのガラスに人影が見えていた。
 もちろん、真向かいには私が映っているのだが、すぐ傍にもう一人別人が立っている。
 ところが、その時、ガラスの前にいたのは私だけで、周囲にひとはいない。
すぐにカメラを出して撮影した。
 その時は、霧のような「もや」のようなものが写っただけで、人影は無かった。
 それをきっかけに時々、撮影するようになったが、次第に影が出るようになった。
 煙玉は神社やお寺の鳥居や山門ではよく写るから、それと重ねると、おそらく「霊気の流れのようなものが存在し、流動している」と考えた。

∋篌身に対する視線
 写真を撮影すると煙玉や人影が写るというのは、かなり昔からの話だが、今ほど頻繁ではなかった。
 現在は「今は来ていそうだな」と思った時には、ほぼ必ず画像に異常が出る。
 自分自身が撮影するか、自身が被写体になった画像で、何らかの異常が出たものは5百枚を越えていた。
 そこで人影の出た画像を確認して気付いたことは、総ての人影が私の視線に視線を合わせているということだ。
 要するに、私が自分を見ているかどうかを確かめようとしているのではないかと思う。
 あるいは、私の周囲の標識(たぶん煙玉)を頼りに目を向けている。

4)危機の予感
 本格的に「近い将来、深刻な危機が来る」と考え始めたのは、昨年の十月ごろから。
 例年、冬場は調子が悪く、寝たり起きたりの状態が多いのだが、今回はいつもとは違った。
 写真を撮ると、ほぼ毎回、異常が出るようになっているし、次第に私の近くに寄り集まっている。
 さらに画像だけでなく、気配を感じ、目視もするようになった。
 存在しない「女」を目にすることが度々起き、程なく確信となった。
 十二月には「一、二ヶ月の内に死ぬだろう」と考え、身辺整理を始めた。

5)傾向と対策
 こういう状況の中でも、とりあえず「やれることはやろう」と考えた。
 ひとつの対策は、「掴まれないようにする」こと。
 「お迎え」は便宜的なレトリックで、実際には「あの世の使い」でも、地獄や天国からの使者でもない。
 死人(幽霊)が私の死期を悟り、それを見るために寄って来ている。寄ってくる目的は、主に「同化・合体し、自我を強化すること」。自我を失わないようにするには、同じような嗜好を持つ魂を取り込むことが有効だから、それを試みている。
 これを防御すれば、「死期が遠ざかる」と考えた。

 その具体的な防御策は、「霊気の流れの中に立ち、その流れに紛れること」。
 母の作戦がヒントになった。人を隠すには人の中、魂を隠すには、幽霊の中ということだ。
 普段の年でも、私は一年に百五十日はお寺か神社に参拝・参詣しているが、さらに頻度を増やした。
 ただ行くだけではなく、何処に霊気が流れているかを確認するために、必ず、各所で撮影した。

 要点は次の通り。
・極力、霊気の流れに触れる。ただし、どの神社・お寺でもよいわけではない。神職や僧侶の考えが正しく、日頃、お勤めを丁寧に行っているところだけに、人為的な「扉(あの世との交流点)」が出来る。
・通る道筋や拝礼の仕方にも、やり方がある。いつも行く神社の場合は、外鳥居の前で拝礼(大日礼)、道の左端を通って、内鳥居で拝礼、左端を通って、神殿前で拝礼する。神殿前で3回周り、3度拝礼すると、概ね霊気の流れに接触出来る。
 これは「3回目の後で撮影した画像には、人影らしき姿が写る」ことで分かる。
・死者に敬意を払い、ご供養をする。

 ちなみにお経や祝詞を唱えたりする必要はない。お経を唱えることが目的にすり替わる場合があり、「意味を考えずに、ただ唱える」のは、むしろ逆効果になる。
 写経なども一言一句の意味を考えるためなら役に立つが、概ね写すこと自体が目的に替わっている。そうなると、むしろ百害になる。

6)分岐点
 4月初旬頃、居間で横になっていると(覚醒している)、顔の上十五センチくらいに「女が顔を寄せている」気配があった。目を瞑っていたが、女の顔の表情が見えた。
 すぐに立ち上がり、刀で女を切り捨てた。
 説明が必要だが、「昔、首切り役人をやったことがある」のを思い出していたので、今は「常に左脇に刀を携えている」イメージを持っている。その刀で、女の首を落としたということ。
 この時が分岐点。
 ちなみに、「刀」をイメージすると、死霊が恐ろしく無くなり、相手が怯む感触がある。
 私が「自分にはもはやお経や祝詞、九字も必要がない」と言うのはこのためだ。
 刀をイメージするだけで済む。

 先頃、お寺で撮った写真に、おぼろげに首と胴体が離れた女が写ったのだが、私がドキッとしたのは、少し前に「切っていたから」ということ。前世の記憶とも合致する。
 このため、今は朝晩、自分が切った罪人のご供養をしている。
 ま、ここは想像や妄想の類で、大半の人が信じられないと思う。
 私も自分の身に降り掛かるまでは、まったく信じなかった。父の話も、金太郎さんの話も信じなかったが、今は「あるいは、あながち総てが妄想の類ではない」と思う。
 病気と同じで、自分がその病気に罹るまではたかを括っている。

 もうひとつは、神社の参拝の折に、それまでとは違う煙玉が写るようになったことだ。
 これで変化を実感した。
 夕方、神社の境内で撮影したが、フラッシュしか光源のない写真に煙玉が写った。光の方向が逆なので、これはレンズの効果によるものではない。
 また、同じ境内で、「少年」の姿を見た。もちろん、実際には存在しない「少年」だ。
 この煙玉や「少年」を見た瞬間、心と体がスッと楽になった。
 この時、それまで私にしがみついていた「女」が手を離したと思う。

 過去1年の人影写真には、多く同じ「女」が写っている。
 最初は景色の端に顔を覗かせるだけだったが、次第に中央に来て、何時しか背後から私に抱きついていた。
 今は手を離しているが、完全に遠ざかったわけではない。
 この後は、なるべく近づけないように心掛けようと思う。

 もちろん、総てが終わったわけではない。声も音も聞こえる。
 「助けて」と呼び掛ける声が多過ぎて、どれが味方でどれが敵なのかがサッパリ分からない。
 面倒なので「とりあえず切ってから考える」ことにした。(この最後のは冗談だ。)

 いつも「どういう信仰でも良いので、持ったほうがよい」と言うのは、具体的には、霊気の流れに触れることが出来るからだ。(正確には、出来る人もいる、だが。)
 だからと言って、何の功徳や利益があるわけではない。「この宗教に入ればご利益・ご功徳がある」と騙るところは、ただの客寄せに使っているだけに過ぎない。信仰と人生の成功とは元々、関係が無い。
 心が落ち着くことで、回り回って状況が好転することがある、という程度だ。

 しかし、信仰によって自分で自分を救う道筋が出来る(ひともいる)。
 知識や努力では解決できない問題を解くには、心の修練が要る。

 結局、どういう理由であっても、私が「今、生きている」ことには変わりない。
 医師の幾人かは、私が立って歩いていることに首を捻る。
 (もちろん、それもそうそう長く続く話ではない。今生の寿命自体は、既に終わっていると思う。)

 これを読んだ人がどう思おうが、それはその人の勝手。私は理解や共感を求めているわけではない。
 自身の過去の経験から、生前は「ウザい」と思っていた叔父の語っていた話の内容が後に役立ったことを踏まえ、読む人の中には、「私と同じような経験をする人が出るだろう」と考えたのだ。
 その時になにがしかのヒントになるかもしれない。

 途中経過の段階では、本当に怖ろしい思いをした。
 のべつ幕なしに、誰もいない2階で物音がするのだが、頻度が減っても、それは今も続いている。 

●添付画像の解説
1)鳥居の前での煙玉
 神社の鳥居、お寺の山門の前では頻繁に煙玉が写る。多くは自然現象だが、説明のつかないものもある。この画像は1月のもので、空気が乾燥しているから、ミスト(水蒸気)にフラッシュ光が反射したものではない。
 こういう感じの画像はざらざら撮れる。

2)黒い人影
 神社の神殿前の画像。私の他に参拝客はいない。フラッシュの位置が私だから、私の前に「誰か」がいなくてはならないが、誰もおらず影だけが写っている。

3)目に見えない霧
 十年以上前、サービスエリアで撮影した画像。晴天で、実際には霧などは無かったが、私が被写体になったものだけ霧が写っていた。
 よく見ると、霧の中に黒い人影が複数立っている。

4)ガラスに写る人影
 神殿前のガラスに、二人分の人影が映っていた。1人は女性のようで、もう1人の男は首が20センチくらい肩から浮いている。特に恨み言を抱えている風でもないから、「ごく普通の人でも、死後、幽霊になる」らしい。

5)女が掴んでいる
 神殿前で撮影したら、ガラスには後ろから私にのしかかり、腕を掴む女が写っていた。

6)存在しない母子
 やや不鮮明だが、ガラスに母子が映り、何かを訴えている。
 「助けて」と呼びかけて来る霊は、本当に沢山いる。
 女児を抱く左手は割と鮮明で、指の一本一本を識別出来る。

7)猫の周りの煙玉
 境内で猫を撮影したら、猫の周囲に煙玉が出ていた。
 私の周囲にも常に出ているらしく、この猫は30メートル以上離れたところでも私を見付け、近寄って来る。私ではなく、煙玉を見ているのだろう。