◎「お迎え」を遠ざける方法
「死期が近くなると幽霊を見るようになる」(漱石シンドローム)という現象には、「その人の死が間近であることを悟った幽霊たちが近寄って来る」という要素が含まれている。
幽霊が人に近寄る目的は、その人の人格を取り込み(同化・吸収・合体)、自我・自意識を強化することにある。このため、その人が持つこだわり(嗜好や性癖)に近しいものを持つ幽霊が近付きやすい。
そこで幽霊が行うのは、相手の心に囁き掛けることだ。
感情を揺さぶり、起伏の波を大きくし、心の中に入り込む。怒りっぽい者には、さらなる怒りを吹き込む。願き悲しむ者には、より一層の悲しみを思い起こさせる。
アルコール依存症で体を壊した者には、同じ病状を辿り死んだ者が寄り憑く。
その人の心に「もっと飲もう」「まだ足りない」と囁く。
これで結果的に「死期が早まる」という事態となる。
それなら、自身に近寄って来ようとする幽霊をいち早く検知し、感情の増幅を避け、同化されぬように心掛ければ、死期を遅らせることが出来ることになる。
(ここは正確には「死期が早まるのを止める」ということになる。)
死期を遅らせるには、幽霊の所在をきちんと把握して、その中に自分に関わろうとする者がいれば、これを「極力遠ざける」ようにしていればよい、ということだ。
これまでの経験から、幽霊を遠ざけるには、「その相手との相手に線を引き、ここからは入って来るなよ」と命じるだけで良い。伝え方は状況により様々だが、まずは丁寧に頼み、それで駄目なら、徐々に「念」(祈祷)を使う手立てに移る。
とにもかくにも、まずは「幽霊の所在を検知する」ことが必要だ。
これには「特別な(霊視)能力」は不要で、単にやり方を習得すれば良いだけだ。
そもそも、そんな能力は存在しないし、視聴覚域が届かなくとも、今はそれを補うカメラや録音装置がある。
普段の暮らしの中で、これを実践するコツが幾つかある。
ひとつ目は、「物ではなく光の筋(光線)を見る」というものだ。
人は、日光や照明などが対象物に当たり、それが反射した光を見ている。
ところが、幽霊は人間の視覚域の境界線を跨いで存在しているので、目視では見えぬことの方が多い。ただし、幾らか空間に対し影響を与えるようで、電磁波や放射線量が揺らぐように、光の角度も少しく変わる。すなわち、事物そのものではなく、その周囲の空間を走る光線を観察することで「異変」を察知出来る。
映画『プレデター』の宇宙人のように、姿は見えぬが、通常とは屈折率が異なるので、「そこに何かがある」ことが分かることがある。
まずはこれに慣れることだ。
この光と物体(被写体)との間に生じる「不自然なもの」には、1)煙玉、2)霧、3)眼、4)人影などがある。一つひとつの状況については、繰り返し説明して来たので、ここでは省略する。
これまでに私自身に起きた出来事としては、次のことが挙げられる。
イ)体の上に煙玉が写った場合は、数か月内にほぼその位置の臓器に疾患が生じた。
ただし、被写体が少人数だけであった時。集団写真に煙玉が出るのは概ね問題なし。
ロ)体調の良くない時に、人影が頻繁に写り、かつ私のことを見ている。
ハ)幽霊に体を掴まれたりすることで、何か良くない事態が生じたことは無い。
体調が悪いから寄り付いているのであって、「悪化させるため」ではないようだ。
「近しい心に寄り付き、感情を揺らしつつ徐々に同化して行こうとする」と表現するのが正しいように思われる。
このうち「人影(幽霊)」については、それが身近に存在すること自体により「直接的な悪影響を受けることはほとんどない」と言える。
多くの幽霊は単に「惹き付けられている」だけか、「助けて欲しい」だけで、特別な意図を持たない。
「お迎え」の性質を持つ者は、「意図をもって近付いている」ので、それが姿かたちに現れる。注意・警戒すべきは、「当人の姿に似せている者」や「当人のふりをしている者」だ。
同化を目的としているのだから、「馴染みやすい姿に化ける」のは当たり前と言える。
さて、ふたつ目の着目点は「視線」だ。
舞台に立ち、眼の前に数百人の群衆が自分を注視していると、誰しも圧迫感を覚える。
こちらを見る観客の視線が少なくなると、徐々に視線の圧力が減じる。仮に群衆の中で一人だけに見られていても、視線(の圧力)を感じ取れる人は居る。
「気配」に類するもので、持ち前の注意深さ(気配り)や経験にもよる。
幽霊の場合、生きた人間より分かりやすいのは、「視線が眼のかたちをしている」ということだ。
画像にはこれが単独で出ていることもあるし、「説明のつかない煙玉」や「人影」と同時に現れることもある。そこには存在しない人の姿が写る、いわゆる「心霊写真」には、多く煙玉と眼が同時に写り込んでいる。
以上をまとめると、幽霊を捉えるためには、まず「光の進行方向にずれがないか」を確認する習慣を持つ必要がある。屈折した光や、ボヤけ具合を眺めていると、その近辺に「煙玉」や「霧」が見えることがある。
幽霊はその近くにいるのだが、多くは「眼」や「手足」など「断片的な体の一部」であることが多い。
それが何者かを推定するには、「見えていない部分」を想像で補う必要が生じる。
「第六感(霊感)の本質は、経験を踏まえた想像や妄想で出来ている」というのは、こういう事情からなる。
もちろん、経験を踏むことにより、精度は次第に増すが、「ただの想像や妄想」ではなく、客観的事実と照合する姿勢が大切だ。
いつも書くことをここで改めて記すが、「幽霊はけして怖ろしい存在ではない」。
恐らくは、人が死ぬとその総てが幽霊(残存自我)のステップを通る。人による違いは、その期間が長いか短いかしかない。
心に病を持つ人が粗暴な振る舞いをすることがあるが、だからと言って、総ての患者が粗暴なわけではない。それと同じで、「幽霊=怖ろしいもの」ではない。
いずれ自分自身も幽霊になるのだから、怖れて忌み嫌うのではなく、より良き幽霊になるための方法を考えるほうが建設的だろう。
注記)一発書き殴りなので、構成や標記にゆらぎがあります。