日刊早坂ノボル新聞

日々のよしなしごとを記しています。

◎二人組

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◎二人組
 ようやく平常を取り戻し、ごく普通の生活に向かっています。
 いざ背負い込んだら、「とにかく早い段階で下ろす」方針としたため、そのために幾日かを費やしますが、身の回りがきれいになれば、その後ほとんど問題が生じません。
 あとは、なるべく人込みに入らないこと、もしくは人と会わないことです。

 さて、空港での人影の中心が「二人組」でした。
 4年ほど前に、病院のベッドに座っている時に、二人組の「お迎え」に会ったのですが、その時の記憶がありますので、二人組には過敏な反応を示してしまいます。
 今回、「お迎え」では無い模様ですので、それほど気に留めなくとも良さそうです。

 今年の1月にも、神社の神殿前で写真を撮ったら、人影が写りました。
 周囲には誰もいなかったのに、少し離れたところに二人が立っていたのです。
 そう言えば、「ガラスに反射した像の中に、ある筈のないもののが写っている」ことに気付いたのは、1年くらい前からですね。それ以後は、時々、撮影していますが、やはり写ります。
 特定の神社だけに起きるわけではなく、太陽の角度や時間帯が合えば、どこでも写ります。
 また、神社やお寺でなく、ごく普通のショーウインドウでも写ります。
 そうなると、特別な「場所」だけに起きるというわけではないようです。

 ま、私の場合、先方から「見える」「見られる」「見やすい」ようで、どこに行っても、煙玉や人影は写ります。
 何十年も前のことですが、霊感師に「あなたは神霊体という性質を持つ人なので、修行した方がよい」と言われたことがあります。
 今にして納得するところがあります。

 さて、空港ではごくおぼろげな影しか見えないので、初めて見る人の多くは「ただの気のせい」「たまたまそう見えただけ」と思うかもしれません。
 何も見えない人は、そのままで宜しいです。そういう人はこの分野での問題が生じにくいです。
 やり取りが始まってしまうと、煩わしくて溜まりません。

 「あの世」との上手な付き合い方の基本は「恐れないこと」「敬意を示すこと」です。
 存在を信じなければ、「恐れようがない」ので、そのままでいるのが得策です。
 普通の家庭には、仏壇や神棚があり、もしくは別の信仰があり、と、死者を敬う習慣が根付いていると思います。
 お墓を荒らしたり、死者をあざけるような振る舞いをしなければ、何も問題は起きません。
 ま、生前に何の心構えが出来ておらず、死後、自身が幽霊になっているのを発見したら、少し驚くかもしれません。

 お墓を汚したり、墓石を倒したりという振る舞いをしても、すぐに「罰が当たる」ことはありません。 もちろん、禁忌事項を犯しているので、それ相応の報いはありますが、それが起きるのは死後の話です。恐らく悪縁がワンサカ寄って来て、そいつらに掴まれてしまうだろうと思います。
 そういう意味での「報い」は必ず起きます。こちらには「終わり」がありませんので、けして軽くは考えないことです。

 ところで、空港でおぼろげなジャケットとジャンパーを見て、すぐに察知したのは、「同じようなものを前にも見ているから」です。
 頭が無かったりするのも同じです。

 次第に画像として捕捉する頻度が増していますので、いずれ鮮明なものが撮れると思います。
 (見える人しか見えませんが)見ての通り、特別な恨みや怨念の無い普通の人でも、いざ死ねば、「幽霊として過ごす」期間があるようです。
 そこまでを視野に入れるなら、生前に「死後」のことを学んで置くべきだろうとは思います。
 自分の状態が分からず、闇雲に「助けて」と叫んでいる幽霊を、これまで数え切れないくらい見て来ました。 

 追記)
 先ほど気付いたのですが、左側の二人組の右側の人物のかたちが変わっていました。
 以前は頭が無かったのですが、今は首を傾げた頭が見えています。頭自体は重なって複数あるようです。複合(集合)霊というわけです。
 二人の背後には、女たちがぞろっと集まっていて、こちらに顔を向けています。

 また、成田の画像では、左上に女性の両目の周辺が写っているのですが、かなり気持ち悪く感じるだろうと思います。
 それでも、この女性が見ているのは「私」のことですので、画像を見た人には何ら影響はありません。
 幽霊は人を選んで現れますし、語り掛ける相手も決めています。
 今の私は画像に頼らなくとも、「誰かが自分を見て、声を掛けている」ことは分かります。
 1年前とまったく違うのはその点です。

 通常、滅多なことは起きません。境界線の外に足を踏み外さない限り、向こうから入り込んでくることはありません。「怖い話」の大半は作り話です。 
 しかし、ホラー映画では、主人公が悪霊に殺されるとそこで終わりになるのですが、死んでも終わりにはなりません。「死」は「終末」ではなく、単なる「折り返し地点」です。