日刊早坂ノボル新聞

日々のよしなしごとを記しています。

◎無数の手

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◎無数の手
 撮影から数日経つと、目が慣れて来ます。
 最初はガラスの奥や明るい風景に焦点が合ってしまうのですが、次第にその手前の「空気」を見ることが出来るようになります。
 そうすると、霧のような「もや」の中に「何か」がいるのが分かります。
 幽霊は空気の中に紛れているので、風景そのものに混じっているわけではありません。
 これは見慣れるしか方法はありません。

 しかし、見えるようになったからと言って何ひとつよいことはありません。
 既にこういうことに悩まされている人ならともかく、怪談やホラー映画に対する好奇心程度からなら、立ち入らない方が無難です。
 見えるようになり始めると、どんどん加速します。
 最初は画像だけですが、肉眼でも「光」(本来は見えない)を見るようになります。
 そして、人影も直接、視野に入るようになるのです。

 「現世利益に役立てるために、こういう感覚を使おう」
 そんな風に考えるはもってのほかです。
 目に見える利益(お金や昇進など)を与えてくれるケースは、陰に悪意が隠れていることが非常に多いです。
 目先の得を追うと、後々、手痛い報復が待っています。
 そしてその多くは「死後」にやって来るのです。

 現世利益は本人の才能と努力の結果として結実すべきで、「神」「仏」への信仰によってもたらされるべきものではありません。
 信仰により精神状態が安定することで、ものごとが好転することも多いのですが、それは目的ではありません。
 生きていれば思い描いた通りにならないことが多いのですが、それが「この世」のルールです。
 自分なりに「よく生きる」ことを心掛ければそれでよろしい。

 その心構えが出来ておらず、死後、行き先に迷ってしまうと、画像の下部のようになってしまいます。
 ここには無数の手が下から突き出ており、指まで鮮明に見えるものもあります。
 「助けて」という叫びが手となって現れているわけですが、既に「手」しか形を留めていないのではないかと思います。
 (画像はかなり縮小しましたので、判別が難しいかもしれません。)

 以前、関東の某所を訪れた際に、橋の上から下を覗いて見たことがあります。
 下は川で、水飛沫が上がり、霧のように煙っていたのですが、その水煙の中から、やはり無数の手が上に向かって伸びていました。
 あまりに気持ちが悪かったので、すぐにその場を離れましたが、不快感はその後も長く残りました。
 死ぬことは怖ろしいことではありませんが、死んだ後、どうしてよいか分からず、どこにも行けず、ただ「助けて」とさけぶようになることほど怖ろしいものはありません。

 なお、その橋はいわゆる「スポット」と呼ばれるところでしたが、場所はあまり関係ありません。
 「あの世(ここでは幽界)」との間に接点が出来てしまえは、どこにでも現れます。