





◎夢の話 第930夜 三万年の孤独
四日の午前五時に観た夢です。
我に返ると、簡素な応接セットの長椅子に座っていた。
ここは、どこかの会社のワンフロアで、沢山の人が机に向かって仕事をしている。
見渡す限りそんな仕事人で、ざっと二百人はいるだろう。
俺はその一角にある打ち合わせスペースに座っていたのだった。
「確かこの会社の誰かに呼ばれて、ここに来たんだったな」
仕事の依頼があったのだ。
そこまでは思い出した。
ところが、いつまで経っても、誰も俺のところに来ない。
時々、別のニ三人が来ては、「ちょっと端っこをお借りしていいですか」と反対側で打ち合わせをしては去って行く。
二十分、三十分と時間が過ぎる。
いい加減、待ちくたびれて来る。
そこで、すぐ近くの机に座る四十歳くらいの男に声を掛けてみた。
「あのう。ナカニシさんに呼ばれて来たんですが」
ナカニシと言う人は、一度か二度、何かの会合で会った人だが、顔もうっすらとしか憶えていない。
すると、相手の男は小首を傾げてこう答えた。
「ナカニシ。うーん、ちょっと分かりませんね。何せ、この大所帯なもんで」
でも、俺はこの前の会合でナカニシって人に会った時に、この男もいたような気がするが。
とりあえず、「そうですか」と椅子に座り直す。
長椅子でぼけっとフロアを眺める。
「こんなに人がいるのに、俺は独りなんだな」
もう俺なんかの出る幕ではないような気がするなあ。
途方もなく疲労感を覚える。
ここで覚醒。
あと「ものの五分」で、当方は「半ギレ」てしまい、帰ったと思う。
そして、ビルを出掛けに、「このビルに雷を落としてくれ」と願う。
上を見ると、飛行機が・・・。
そんな続きになるはずの夢だったと思う。
だが、これも悪夢のひとつなので、途中で切り上げた。
ところで、多くの人が神社やお寺で祈願するのはこんな内容だ。
「息子を凸凹大学に合格させてください」
「宝くじに当たりますように」
「良い彼氏ができますように」
こういうのは、自分の欲望を思い描いているだけだから、「祈願」や「祈祷」ではない。
このうち、「祈祷する」ことは、「願う」ことの先にあるが、「願う」こととは少し質が違う。
どちらかと言えば、「祈祷」は「探り当てる」ことに似ている。
例えて言えば、「暗闇の中に手を伸ばし、何かを探ろうとする」行為に似た感覚だ。
その「何か」を探り当てることが出来た時に「願い」は実現する。
結論を書いてしまうが、その「何か」とは「手」のことだ。
まともに現世利益を与えてくれるのは、神や仏ではなく、その真逆の位置にいる者だ。
神や仏は「主格」(「神格」「仏格」など生きた人間の「人格」に相当するもの)を持たない。言い方を替えれば、「意思を持たない」でも同じことだ。
このため、人間の願いに関しては、何も応えない。ただ見ているだけだから、すなわち存在しないのと同じ。「見ている」も主格表現だから、それとも違う。
人の「願い」に聞き耳を立て、時々、それに応えてくれるのは、「悪縁」(ここは悪霊とか悪魔を思い浮かべると良い)のほうになる。
現世の幸福、すなわち富や栄達のようなものは、祈祷のやり方を覚えれば、案外、簡単に手に入れられる。
むしろ、悪縁の側はそれを「待っている」。
いつも書くが、「この世でもあの世でも、タダで得られるものはない」。
何かを得れば、必ずその代償を払うことになる。
よって、自分の力ではない「何か」の助けを得て、ご利益を得たとすると、そのツケは概ね「死後に払う」ことになる。
「この世」と「あの世」との決定的な違いは、タイムスパンが違うことだ。
人生には必ず終わりが来るが、幽霊には自分自身を解体・解放しない限り、終わりは来ない。
数十年分の富や栄誉と引き換えに、何万年もの間、悪縁の下で奴隷として過ごす。
それが「ツケ」だ。
悪魔や悪霊の手を握り、契約を交わせば、何億円も何十億円も簡単に手に入る。
だが、その引き換えは、何万年もの闇だ。
そのことを知る者は、祈願・祈祷の際に、自身の現世利益に関わらぬように注意する。
予め「人事については、自分の才能と努力で何とかします」と宣言することが大切だ。
神の前では、「揺るぎない志を持ち続けられるような自分自身でいられますように」と唱えればよい。易しく言えば「強い心でいられますように」だ。
このように普段なら冷静でいられるが、怖ろしいのは、いざ苦境に立った時のことだ。
体を壊したり、経済的にうまく行かなかったりすると、もし手近にそれを解決してくれるものがあれば、思わず飛び付いてしまう。
目の前に十億円を出され、「好きに使っていいよ」と言われれば、誰しも心が揺らぐ。
半分の人は応じると思う。
ほとんどの人は、死後に何が起きるかを知らないからだ。
宗教は「生きている人が転ばぬための杖」だから、「どう生きるべきか」という方向性について導いてくれるが、それはあくまで「生きている間」のことだ。
宗教の語る世界観を観察すると、大半が想像や妄想から着想を得た作り話になっている。実際には存在しないものを語っているということ。
それはそれで構わない。転ばぬための「杖」だからだ。
愛と希望の杖が無くては、人はとても自身を支えきれない。
もし、神が居て、あるいは天使や守護霊がいて、人間たちを見守っているなら、あるいは向上を促すなら、何千年もの間、「人間が同じところに留まっている」ことなどあるだろうか。
実態は何も変わっておらず、いつも他者と争い、多くの命を踏みにじっている。
それもその筈で、そもそも「人の姿に近く、意志を持つ」ような神は存在していない。
幽霊のことは観察可能だが、神や仏に類するものは存在する痕跡が見当たらない。
さて、お寺や神社で写真を撮るようになったのは、たまたま、画像の中に人影を発見したからだ。よく観察してみると、太陽光(直射日光)だけでなく、フラッシュが加わったり、ガラスに映ったりしたものを撮影した時に画像に写りやすい。
日中、ガラスに映る自身の姿を撮影するのは、そのアングルだと、カメラのレンズに日光とガラスの反射光の二つが交錯するからだ。(さらにフラッシュを使うと、もう一つの光の要素が加わる。)
掲示した最初の画像は、レンズに映る「眼」の画像だ。当初は虫眼鏡と同じ理屈で、レンズの先に私の眼があるから、それが拡大されて映るのだろうと思っていた。
ところが、よく見ると、これをどうデフォルメしても、私の眼とは似ても似つかない。
いつも背後に「誰か」がいる気配を感じるが、時々、私の眼を通して外界を見て、私の耳を通じて音を聞いているのではないか。
思い当たるふしが幾つかある。
次のヒントは「腕」だ。
神殿の前には誰も居らず、私一人の時に撮影した画像だ。
左側に女性が写っているが、これはすぐあとから来た人のようだ。間に柱があるから、横並びでは認識し難い。
今は必ず周囲の状況を確認してから撮影するが、この時はしっかりと見ていなかった。
それはともかく、この画像を拡大すると、中央に「何か」が写っている。
これは右手が綱のようなものを引いているところのよう。
もちろん、こんな風に錯覚させるようなものは、ここには存在しない。
ここからは想像や妄想、すなわち第六感の領域になる。
通常、こういう感じの手は「メッセージ」を意味している。
私のすぐ後ろにいる女が「手」の主だと思うが、コイツは耳元で「お前はわたしのものだよ」と囁いている。
この手のはかなり多く、幾枚もこれより鮮明に見える画像が残っている。
実際、綱の先は私のところだ。
いつも思うが、悪霊があからさまに「取り憑いている」状況なのに、実際には何も起きない。それどころか、五年前には死んでいる筈なのに、まだ生きている。
要するに、何か「役に立つ」と見なされているのだろうと思うが、これが最初の画像と結びつく。
もしや「あの世」と「この世」を繋ぐ役割を果たしているのではないか。
そういう仮説に辿り着く。
ちなみに、宗教団体を作ったりするつもりは毛頭ないので、念のため。
自分がどのように死に、その先、どのように振舞うかを考えているだけだ。
繰り返しになるが、宗教は生きている人のため、生き続ける人のためにある。
私が関わろうとしているのは、死んだ後の世界になる。
追記)一発書き殴りなので、表現に不首尾が多々あると思う。