日刊早坂ノボル新聞

日々のよしなしごとを記しています。

小泉前総理と靖国神社

一昨年、妻の祖母が百歳を目前にして亡くなりました。
妻はアジア系外国人で、その国では平均寿命は50歳代だと言われていますので、祖母は極めて長命だったと言えます。

妻と結婚する時、その祖母のところへ挨拶に行こうかと提案したことがありますが、妻も義母も口を揃えて「ゼッタイにだめ!」と答えました。
祖母は大戦中、その地を占領した日本軍の兵士に、自らが見ている前で夫を殺されたそうです。
また祖母自身も、軍刀で切りつけられ、大きな傷が体に残っていたと聞きます。
もちろん夫婦とも民間人でした。

そのため、祖母は「日本人」を見つけると、台所から肉切り包丁を持ち出して切り掛かった。
実際、近所の家の娘が日本人のダンナさんをもらった時には、包丁で追い掛け回したということです。
妻と義母はそのことを懸念し、反対したわけです。

こういう経緯もあり、小泉前首相が靖国神社の参拝に固執した時には、大きな違和感を感じずには居れませんでした。
「国のために命を捧げた人たちに敬意を表すのは当たり前のこと」
この人は何ごとも、問題を抽象化・簡略化(あるいはデフォルメ)し、かつ社会正義にかこつけた言い方をする。政策の論理的矛盾を問われると、ただ「改革を止めるな」という言葉だけを繰り返すだけでした。

もちろんそれらの「言葉」自体は常に正論(「正義とは正しいこと」と言っているので)。
しかし、この例では「国に命を捧げた人に敬意を表し哀悼の意を捧げること」と、「靖国神社に参拝すること」はイコールではない。
靖国神社そのものではなく、あくまで靖国神社に祀られた「国のために命を捧げた人」に対し敬意を表することが正論だということでしょう。
靖国神社では、前の戦争を正当化する主張を行っていると聞きます。これは私自身では未確認なので、もしそうであるなら、の限定府付きの話ですが、そうなると宗教団体の範疇ではなく、政治結社であるように思われます。
日本の国のため戦争で亡くなった人に敬意を表すのと同じ意味で、戦争で命を落としたアジアの人たちに敬意を表すのも当たり前のことです。
小泉前首相の言葉は、国外から見れば「日本のためにオマエらが死ぬのも当たり前」と聞こえるはずですが、この人はそんなことなど想像すらしなかったことでしょう。

若い人たちに勧めたいのは、是非、住まいの近くのお寺を訪れて欲しいということ。
そこには必ず、戦争で亡くなった人のご供養のための一室があります。
お寺によっては何百人ものご位牌が並んでいるはずです。亡くなられた年齢を見ると、皆、21歳とか23歳とか極めて若い人たちばかりです。
戦争が無ければ、ひとり1人にそれからの色んな人生があったことだろうと思うと、知らず知らずのうちに両手が合わさります。
まずは近くのお寺に行き、それから次に国に命を捧げた方々のために靖国神社にお参りに行くとよいと思います。この自然な気持ちは、親やお年寄りに敬意を払うことと同じように大切です。

でもそれは、けして現在の靖国神社の「政治思想」を支持することではありません。
扇動政治家の代表たる小泉氏のような発言に惑わされてはいけません。
小泉氏の「わかりやすさ」は、「状況」というものを取っ払った、まさに「言葉だけ」で、彼は基本的に愛国者でもないように感じます。
自分の言葉に酔って涙を流す小泉氏は、「愛国者たる自分の姿」に酔っているだけです。

神道信者で一般の皆さんよりかなり右寄りの私でも、小泉氏の言動には大きな違和感を感じましたので、いわゆる右翼の皆さんも疑問を感じていたことだろうと思います。
自分と家族、さらに地域と国家が連続的に形成されていて、初めて中身のある国家観だと言えますが、国家のあり方を考え直そうとする者にとって最大の課題がそこだろうと思います。国家だけを前面に押し出せば、繰り返してはならない過去の二の舞になります。
自らの姿勢をきっちり正したうえで、近隣諸国の人たちに言うべきことを言いましょう。特に中国には主張すべきことがあります。

事実を踏まえて論評すべきと思いますので、近日中に靖国神社に参拝に行こうと考えています。