日刊早坂ノボル新聞

日々のよしなしごとを記しています。

干し柿

郷里の老父がこの時期には必ず干し柿を送ってきます。
と言っても家で作ったものではなく、産地も様々、仕立ても半生から乾いたものまで色々です。
これはまさに年中行事のように、25年以上も続いています。

私は干し柿が大嫌い。
とりわけ"あんぽ柿"とか言う半生のゆるいヤツなど、二日酔いのオヤジの息の匂いを思い出します。
しかもそのオヤジが飲んだのはゼッタイに日本酒!
朝の電車に乗ったりすると、よくいますよね。

妻も子どもたちも干し柿は嫌い。
よって、当家には干し柿を食べる人間は1人もいません。
「頼むから、干し柿だけは送らないで。結局食べずに捨ててるから」
何回も電話で頼むのですが、父は止めません。

嫌いだけど、なかなか捨てられない。
干し柿」が日本の食文化の中で占めてきた役割を考えると、おろそかにすべきではないと思うからです。
昭和30年代のある時期までは、東北では甘い物を食べる習慣はありませんでした。
お餅や和菓子の類も大半が塩味でしたが、それは長らく砂糖が貴重品でほとんど使えなかった時代の名残のように思います。
江戸時代では、砂糖は南方から輸入する他になく、金と同じ重さの価値だったとも言われます。
とても武士の手の届く食材ではなかったため、大岡越前や遠山の金さんも必ずやしょっぱいぼた餅を食べていたはずです。

そういう砂糖が貴重品だった時代の甘味の代用品が、干し柿の表面にできる白い粉です。
大金持ちは大枚をはたいて砂糖を入手したのでしょうけど、小金持ちは干し柿の粉。
それでも、干し柿をはたいて粉を集めるとなると、かなりの手間隙がかかります。
これが食べられた子どもは、さぞ「ええとこの坊ちゃん・お嬢ちゃん」だったことでしょう。

老父が子どもの時代は昭和初期になりますが、その頃だって東北の寒村には甘いものを食べる習慣はなかったはずです。子どもが食べる最も甘い食べ物は、おそらく干し柿だった。
そんな幼児体験やノスタルジアから、父は干し柿を送るに違いない。
長い間、そう考えていました。

ところが、最近になり、ダンボールの底に残った干し柿を食べてみると、これが美味い。
トシのせいかな。
種類の違う干し柿を食べてみると、あんぽ柿はやっぱり「二日酔いのオヤジ」のままなのですが、美味しく感じるものもいくつかあります。
これって、産地とか種類の問題ではないのでは・・・。
そこで、はたと気がつきました。
干し柿の味に変化を与えているのは、作った人の手です。
皮を剥くのは機械でやったりするけれど、串に刺し干すのは総てひとつ1つ人間がやります。
気候に応じた干し加減は、作る人のセンスや手間隙によって変わってくる。
だから味もひとつ1つ違うわけですね。

なるほど。
父がそれとなく示しているのは、このことですか。
25年以上かかり、ようやくそのことに気づきました。