日刊早坂ノボル新聞

日々のよしなしごとを記しています。

島の暮らし

 以下は数年前に別の掲示板に記載したものですが、最近、いくつか関連する出来事が起きていますので、再録します。「狼少年」という筆名で記録した体験談です。

 平成初頭の話です。
 フィリピンのリゾート地というと南東方面のセブ(現地語ではシブ)ですが、そこから何百キロか西にマスバテ島があります。私はこのマスバテ島の回りにある無名の小島を訪れたことがあります。
マニラから28時間くらいバスを乗り継ぎ、そこから小舟で2時間掛かりました。
 桟橋から上陸すると、島民が珍しそうに集まってきて、人垣が出来ました。
 そのうちの1人の男性が歩み出て、「ここに来た記念にこの岩に名前を書いていけ」と言います。
 ちょうどメディアの取材チームがサンゴ礁への落書き事件を起こした頃で、環境破壊をする日本人としてニュースに流されたりするとたまらないので、これはさすがに辞退しました。
 改めて連れに聞いたところでは、終戦後その島を訪れる日本人は私が初めてだということでした。
 50年ぶりということなら、なるほど納得です。

 この島は中世では中国貿易の拠点で、また近代に入ってからはスペイン人の寄港地だったので、すぐ沖に沈没船が何隻も沈んでいます。このため、時々、魚網に壷など遺物が掛かるということです。
 日本人がこの辺一帯のサルベージを企画したこともあったようですが、フィリピンの法律では半分は国のものになり、経費との兼ね合いで割があわないため、そのままになっているようです。日本人ダイバーもさすがにこんな片田舎までは訪れません。また潮流が早いせいか200m沖まで海水は結構濁っています。
もちろん、その先は目の醒めるようなマリンブルーではあります。
 10世紀ごろの中国の陶器や、18世紀のスペイン風のコーヒーカップ、あるいはスペイン銀貨などが港でも出土するため、訪問したお宅でも保有していました。

 私がやっかいになったお宅は、その島の領主的存在で大地主でした。
 島を訪れるきっかけも、その家の息子さんがたまたま義兄の友人だったからで、彼は普段はマニラで高校教師をしていました。ちょっと見には、失礼ながら良家の子弟には見えませんでしたが、船が桟橋に着き、1歩陸に降り立つと、突然シャキッと背筋が伸び、立ち姿が一変しました。
風貌はまさしく領主の息子です。
 目抜き通りをしばらく歩いて着いた彼の家は、スペイン人の砦を改造したつくりで、まさに館と呼ぶにふさわしい広さでした。
 門をくぐり中庭に入ってみると途中の井戸の脇に子山羊が繋がれています。
 「可愛いなあ」
 ひとしきり頭を撫でた後、館の中に入りました。

 石造りの館の二階に上ると、30畳くらいの広いテラスがあります。白いテーブルに座り一息つくと、十分も経たないうちに、次々この家の跡取り息子へ表敬訪問をする人たちが訪れました。
村長とか、当地在住のセブの大学教授などが次々挨拶に来ます。
 コーヒーを飲み、手持ち無沙汰に中庭を眺めていると、先ほどの子山羊が見えました。子山羊はメエメエ泣いていましたが、下男が2人連れ立って井戸に近寄り、子山羊の足をくるくると縛ったかと思うと、喉笛を山刀でサッと切り、屠ってしまいました。
 先ほどの子山羊は、この島では滅多に無い外国からの客人にもてなすための夕食の材料だったのです。
 
 夕食では果たして、山羊肉の煮物が出されましたが、屠ったばかりの肉を食べつけないのと、子山羊のイメージがちらついているためか、全く飲み込めません。肉にはあばら骨と思しき骨片が付いたままでした。
 とはいえ、主人の側から見ると大変なご馳走です。振舞われたものを食べないわけにはいきません。私は全く噛まずに、大急ぎで一皿を平らげました。
 これは全くの大失敗でした。
 私があっという間に一皿を平らげるのをみた奥さんが、すかさず山盛りのお替りをよそってくれたのです。本当にこれには参りました。飲み込もうとしても喉元にこみ上げてくるので、食が進みません。
 「困ったな」
 ふと脇を見ると、放し飼いの犬がテーブルの下をうろうろしています。食事の残りにありつこうと、待ち構えているのです。私は、骨を犬に与える振りをして、皿の肉を少しずつ床に落としました。もちろん、今度はゆっくりと、皆が食べ終わる頃まで時間を掛けて、です。
 その席では、取れたての鯛の焼き魚も出されましたが、どれも泥臭くて私はどうにも食べられませんでした。この地方では海水温が高いため、どうしても泥臭くなるのだそうです。ただし、もちろん食べ慣れた地元の人は感じないはずです。
 後で聞いたところによると、日本人が魚介類を食べる時には、まず数日冷凍保存して臭みを取ってから食べるのだそうです。電気の無いこの島では、冷蔵庫を持つ家は数件しかありません。発電機を終日回す余裕があるお宅は少ないからです。

 食事にはほとんど参りましたが、広間ではガス灯、寝室には蝋燭の明りが灯されていて、夢幻世界のような趣でした。
 食事の後、風呂に入ったのですが、ドラム缶ほどの甕(かめ)の中は、なんとお湯でした。湯沸しして、それを風呂場まで運んだというわけです。ちなみに、フィリピンでは浴槽に浸る習慣は本来ありませんので、柄杓ですくって体に掛け汗を落とします。

 夜になって寝室にひきとり休んでいると、ビールをしこたま飲んだため、小便に行きたくなってきました。
 しかし、初めての家でトイレの場所がわからず、しかも屋内は灯がまったくなく真っ暗です。
 ドアを開けて、途方に暮れていると、ほどなく廊下の隅に居たメイドが蝋燭を掲げて近寄ってくるのが見えます。お客さん用にメイドを1人配置しておいたというわけです。後で聞いた話では、そのお宅では家主は親御さん2人と息子さんだけでしたが、その3人の世話をするメイドの方は十数人いるという話でした。
 この私専従の、16、17歳ほどのメイドに案内されトイレの前まで行き、蝋燭を渡されました。
 トイレの落とし穴は蝋燭の明りではほとんど見えず、いい加減に済ませましたが、下はかなり深くしかも水音がします。トイレの真下には水路があり、これは海まで繋がっているので、人間の排泄物は魚が食べてきれいにしてくれるとのことでした。
 ちなみに内陸部では、トイレが豚小屋の上にあるという家はよくあります。排泄物を豚の餌にするわけですね。

 日本人にとっては、さすがに気温が高く、寝苦しかったので、最初の夜はよく寝られませんでした。テラスに出ると、若干はましなのですが、そこは夜蚊が出ます。朝方になり、潮風が吹き出して、ようやく寝付くことが出来ました。
 一方、地元の人は5時には起き、活動を開始します。涼しい朝のうちに、ひと仕事というわけです。そういえば、工事現場の仕事振りを見ても、早朝と夕方は活発に働いていますが、昼の12時から4時頃までは静かです。自国の生活スタイルをその地に持ち込んで、暑い日中にしゃにむに働こうとするのは日本人だけです。
 慣れるまでは、地元の人が皆怠け者に見えます。ただし、数週間もすると、いつのまにか自分もそのリズムで動くようになります。そう思えば、人間の体は実に合理的に出来ていると言えそうです。
朝6時前に、パンとコーヒー、サラダが出てこれが朝ご飯かと思ったら、8時にまた肉・野菜を煮込んだ汁とご飯が出て、こちらが本当の朝ご飯でした。
 午前中には島の見物に回り、昼に焼き魚とご飯で食事。午後は概ねハンモックで寝ており、4時ごろにまた食事です。この時は、装飾用に加工する貝(名前失念)の貝柱をココナツミルクで和えたものと、40cmくらいはありそうなイカの煮付けを食べました。貝柱はすこぶる美味でしたが、私以外は箸を付けていません。
 周囲が「美味しいか」と尋ねるので、「ものすごく美味い」と答えたのですが、その貝も大イカも地元では普段食べないそうで、皆スプーンで少しすくって味を確かめるだけでした。
 全く人が悪い話だ、と言いたいところですが、「日本人は色んなものを食べる」というのを誰かに聞いたらしく、好んで食べると聞く魚介類をわざわざ料理したとのことでした。
 日本人が好んで食べるが現地ではあまり食べないものの典型的な例は、ブラックタイガーとウナギで、前者は田圃の水路にいるザリガニの意識、ウナギはヘビに近い感覚のようです。
 太さが10cmくらいのウナギは、川や池にうようよと生息しています。誰一人獲ろうとしないので、数が多く、何年も生育します。

 午後4時の食事でしたが、この時間帯に晩御飯とは早いので、「さすがに電気が無いので暗くなったら寝るんだろうな」と思いました。
 食事の後は、ガス灯の灯りの下で酒を飲みました。
 ツマミはその日に採れたばかりの伊勢エビで、網焼きにしました。
 ところが、料理の直前まで生きていた新鮮なエビだったのに、やはりどこか泥臭い。
 海水温が高く、かつ潮流の早い遠浅の海なので岸から2百メートルくらいは濁っています。日本人にとっては大ご馳走の伊勢エビですが、やはり2、3日冷凍して臭みを取らないと刺身にはできないようです。 現地では鯛だのマグロだのがふんだんに採れるようです。
 漁師から新鮮な魚介類を買い冷凍・冷蔵保存しておき、日本の漁船に卸すっていう商売ができるかも、と感じましたが、これには相当の設備投資が必要になりそうです。(続く)