日刊早坂ノボル新聞

日々のよしなしごとを記しています。

通夜の席にて

急遽、所属団体のOBが亡くなったとの連絡が入り、通夜の席に出ました。
東京近郊のとある斎場に行ってみると、周囲には何もない山の中でした。

入り口で受付を済ませると、「外でお待ちください」との由。
しばらく外で待ちます。

15分後、「では中でご焼香を」との口上があり、それに従って中に入ると、祭壇の前にはお坊さんが既に読経を始めていました。
(挨拶は無いのかな。)
弔問客は60、70人でしたが、中の家族・親族は十数人ほどです。
2列に並び、入り口から5辰曚匹虜彙鼎任焼香を済ませ、順路掲示に従って脇の廊下にでました。
すぐに葬式業者が「隣の部屋でご供養を」と案内しますので、請われるまま中に入ります。
その部屋では飲み物や食事が準備されており、先に入った弔問客は早くも食べ始めていました。

「普通はお経が終わってから喪主の挨拶があり、それからだよね」
隣の人が呟いています。

しかし、その部屋ではほぼ全員が料理に手を付け始めています。
これでいいのかな。
喪主の挨拶があり、お坊さんのご法話が終わってから故人を偲び・・・、ですよね。
大体、故人の半生の紹介とかもなく、いつ生まれ、何歳で亡くなったのかもわかりません。
通夜とはいえ、いくらなんでも。

「次々にお客さんが来ると、時間が長くなるからトコロテン式に返そうということかな」
先ほどのオジサンがまた呟いています。
15分も経たないうちに、席を立つ人が現れました。
あれれ、本当に挨拶も何もないみたい。

「まだお経が終わってないのに、帰るというのはどんなもんだろ」
また例のオジサン。
「ちょっと帰りにくいですね。普通は喪主の挨拶やご法話があるはずですね」
私もつい答えてしまいました。

しばらくすると、読経が終わった気配がしました。
程なく、お坊さんが帰っていきます。
信じられない。
何宗のお坊さんなのかもわからないままです。

説明や案内、ご法話が何ひとつ無いまま、帰路につきました。
この間、斎場についてから数え、ナント45分の間です。
この斎場では、通夜・葬式、火葬が1箇所ででき、墓地は隣にあるという話です。その上、遠路弔問に訪れる人のために、宿泊施設まで備えているということで。

今回初めて、はっきりわかりました。
世の中が殺伐として、毎日誰かがどこかで殺されていますが、こんな命を軽んじる風潮が当たり前になってしまったのは、宗教界の責任ではないか。
人生のうち、親族や知人が亡くなるという機会はそんなに多くはないはずで、それは命の重さを考える大切な機会になります。
お坊さんは呪文のような意味のわからないお経を唱えるだけの存在ではなかったのではないでしょうか。
なぜご法話をしないのか、これが不思議。

田舎の葬式では、通夜や葬式には今も必ずご法話があります。
これが東京付近では無いばかりか、式場からトコロテン式に押し出される始末です。
生きる事の意味を学ぶのはけして学校でではありませんよ。
子どもがおかしくなっているとよく言われますが、こんな風になったのは大人が手を抜くようになったからです。
命の大切さを教えるべき、宗教界がこんな状態では話になりません。
坊主達にも定期的に適性検査を行うべきですね。
もはや敬意を払う存在ではありませんので、今後はダメな僧侶には堂々と「坊主」と呼ぶことにします。