日刊早坂ノボル新聞

日々のよしなしごとを記しています。

◎鎮まるはずだが(458)

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11月27日の画像

◎鎮まるはずだが(458)

 数日前の「猫わらし」をスマホに保存した。

 「俺の直感が正しければ、しばらくは何も異変が起きなくなる」

 まだ午前中だったが、すぐに外出した。

 御嶽神社まで行こうかと思ったのだが、いずれにせよ、この時期からは階段を上がれない。

 「数十段ほど上がったところで引き返すことになるなあ」

 そう考えて、結局いつもの神社に行くことにした。

 昨日も参拝したから、三日連続の参拝になる。

 「お昼時だし、曇りだし、こないだの一件があるから、今日は穏やかな一日を過ごせるだろう」

 神殿の前では、「自分と関わる者総ての心が穏やかでいられますように」と祈願した。

 数枚撮影し、駐車場で開くと、人影が写っている。

 順番に見ると、何のことは無く、私が階段を上がった時に気付かなかっただけで、他の参拝客が門の陰から来ていたらしい。

 その人も写真を撮ると、すぐに社務所のほうに向かったらしく、気付かぬままだった。

 

 「何も見えず、聞こえぬ方が幸せだということもある」

 ま、時間帯が違うし、直射日光が不足しているだけの話かもしれんが。

 

 境内では、「タケ※※ピアノ」のCMの歌を口ずさんだ。

 家人によると、「この曲で必ず赤ちゃんが泣き止む、とテレビでやっていた」とのこと。

 リズムなのか音なのかは分らぬが、とにかく九割の赤ちゃんが喜ぶらしい。

 そういうのは、「あの世」にも関連しているから、祝詞やお経をあのリズムで試す価値はあると思う。

 「そのとおおり!」

 でも、財津一郎さんの口真似は、結構難しい。

 

 帰宅して居間に座ると、たちまち眠くなり、寝入ってしまった。

 すると、すぐに夢を観たが、郷里の家を訪れており、誰かと一緒に風呂に入る夢だった。

 「誰か」は男のような気がするから、息子が小さい頃の筋立てかもしれん。

 体を洗おうと、タイル場に出ると、掃除をしていなかったのか、床が汚れている。

 「床が汚れているぞ」と浴室の外に叫ぶと、母が「今は掃除をする人がいないからだよ。もうすぐ年取りだから、今のうちに掃除をして」と返して来た。

 母は亡くなっているから、ここでハッと気付く。

 「俺は夢を観ているのだな」

 これで目が覚め、体を起こした。

 周囲を見回すと、既に夕方になっていたが、居間のドアが開いていた。

 「ありゃ。寒いから風が通らぬようにきちんと閉めた筈だが」

 それと、夢の中で浴室から叫んだ時に、「実際に声を出していた」ようなおぼろげな記憶がある。

 「まさか、お袋が『田舎の家の掃除をしてくれ』と俺に伝えているわけではないだろうな」

 だが、もちろん、すぐに「そんなことはないよな」とその考えを打ち消した。

 

 でも、ここからが私の私たるところだ。

「まさか」と考えを打ち消した直後に、部屋のブレーカーが落ち、照明が消えたのだ。

 曇りの日の夕方だから、もはや真っ暗。手探りでスマホを探し、その灯りを頼りに、ブレーカーを戻した。

 もちろん、すかさず兄に連絡を入れた。

 「もうすぐ年取りだから、掃除をしてくれとお袋が言っている。とりわけ排水口のところをきれいにしろということだ」

 夢の中では、そこがゴミで詰まっていた。

 兄はすぐに「分った」とメールを返した。

今では「こうした方がいいよ」と言うと、親戚知人の誰もがすぐにその通りにする。

 

 ブレーカーが落ちた時に気付いたが、暗闇の中にしっかり人の気配があった。(これはさすがに少し退いた。)

 複数だから、やはりこれまでと変わらない。

 常に見ている、見られているということだ。

 

 ところで、先日の妖怪?を「猫わらし」と呼ぶことにした。

 基本が女児のようだからそうなったのだが、今は「トラが変わったものではあるまいか」とも思っている。

 

 ちなみに、ここで起きていることは、もちろん、「偶然の産物」だ。そのことに意味や意思を感じるのは専ら受け取る側の心による。

 いつも、第六感は「気のせい」であり「想像や妄想」だ、と言うのは、そういう意味になる。

 しかし、今回のように、結果的に「今は誰もいない実家の掃除をして、新しい年を迎える」ことは、「皆の心が晴れる」という展開を生じさせる。

 信仰の意義や価値はそこにある。

 人々に恐怖心を与え、それを利用することではない。