日刊早坂ノボル新聞

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◎「お迎え」を回避する手立て

◎「お迎え」を回避する手立て

 死期が迫った時に、「この世ならぬ者の姿を見る」という話がある。

 夏目漱石は亡くなる半年前くらいに、自分から少し離れたところに立ち、じっと見ている人影を見たそうだ。漱石が時折、「庭に向かって『煩い』と叫び、物を投げつけた」という逸話が残っている。

 

 ブログに幾度も書いたが、改めて幾つかこういったケースの概要を記す。

 まずは、私の遠縁の金太郎さんだ。

 金太郎さんは、癌になり切除手術を受けたが、どうも経過が良くないので、家に戻って来た。次に入院する時には、おそらく戻っては来られない。そんな状況だ。

 その金太郎さんが居間に座っていると、入り口から見知らぬ男が「ずんずんと家の中に入って来た」そうだ。

 金太郎さんは、その男の顔を見た瞬間、「これは俺のことを連れ去りに来たのだ」と悟った。男は板間の端に足を掛け、居間に入ろうとしたので、すかさず金太郎さんは男に叫んだ。

 「ちょっと待ってくれ。俺はまだ行けない。行くわけにはいかんのだ。だからとりあえず今日は帰ってくれ」

 すると、男は金太郎さんのことをじっと見ていたが、くるっと背中を向けて出て行ったそうだ。

 金太郎さんは、それから1年くらい生きた。

 

 ところで、「お迎え」に興味を持つのは、私自身も間近でそれを見たことがあるからだ。

 今から四年前のこと。私は心臓の治療を受け、数週間ほど入院していた。

 心臓を治療すると、直後はものすごく気分が良くなるが、気を付けなければならないのは「術後三か月のうちに、必ずぶり返しが来る」ということだ。

 施術の成功によって気分は爽快だし、体も何ともないのだが、いずれ必ず不調が来る。多くは不整脈で、そのまま死に至ったり、あるいは梗塞を再発させたりする。

 術後、三週間くらいで、「どこどこ」が来たのだが、まだベッドにいて、常時、心電図が胸に貼り付いていたので、すぐに対応してもらった。

 話はそれから数日後のことだ。

 夕方、私はベッドの上に座っていた。もちろん、きちんと覚醒していたから、それから起きたことは、夢でも何でもなく実体験そのものだ。

 病室の扉が開き、男二人が入って来た。

 男たちは私のベッドの方にずんずんと歩み寄って来る。

 一人は茶色のジャケットを着て、もう一人は黒いジャンパーにハンチング帽を被っていた。ひと昔前に競馬場でよく見掛けたような中年のオヤジ二人連れだ。

 その二人の顔を見た瞬間、私は飛び上がった。

 「これは到底この世の者ではない」

 ごく普通の中年オヤジの顔と表情だが、血が通っていないというか、何とも言えぬ悍ましい気配が溢れていた。

 中世の説話文学に「死んだ妻が戻って来る」という話がある。亡き妻が生前と同じ様子で家に入って来るが、どこがどうというわけでもなく悍ましい。夜中に暗がりで見ると、そこに寝ていたのは死人だった。

 この話と通じるものがある。

 その時、私は「こっちに来るな」と叫んで、拳を振り上げた。

 そんな私の牽制を意に介さず、二人はベッドの端まで来て、私の方に手を伸ばした。

 しかし、私の足元付近で四本の手が止まった。

 二人はしきりに周囲を探るのだが、壁に当たったようで、そこから前には出て来ない。

 まるでそこに水族館のアクリル板があるかのような突き当り方だった。

 ひとしきり探っていたが、私を掴まえられないと知ると、二人は背中を向けて去って行った。

 その間、私は気が気ではなかった。

 私は、何となく「その壁があるのは前面だけで、横は開いている」ような気がしたからだ。

 要するに、ベッドサイドに回れば、私を掴まえるのは容易なことだった。

 

 余談だが、その時から、あの世に係る異変がのべつ幕なしに起きるようになった。

 かなり前に一度心停止を経験したことがあり、それ以後、時々、音や気配を聞いたり見たりしていたのだが、それが幾倍かの頻度になったのだ。

 ちなみに、私は臨死体験や不可思議な体験談を集めているのだが、「お迎え」に対面した後、生きていられるのは、せいぜい半年、長くとも一年だ。

 私のように、四年間この世に留まっているケースは極めてレアなようだ。

 もちろん、十分にそのツケを払い続けている。

 

 名前を出せないので、他のケースは省略するが、多くは夏目漱石や金太郎さんのように、「見知らぬ者が近づいて来る」というものだ。

 認知症になり粗暴になった高齢者の中には、やはり目に見えぬ「何者か」に対し、物を投げつける例が多い。

 「この野郎。どこかへ行け」

 その中には、この世ならぬ者が混じっているのかもしれない。

 

 「お迎え」が少し変化するパターンもある。

 母は二年前に亡くなったが、亡くなる一年ちょっと前に、父のところに若い男が訪ねて来た。

 父が家にいると、「ピンポーン」とチャイムが鳴り、扉を開けると、その男が立っていたのだ。

 父は男を中に通し、座って貰った。

 すると男は「私は※※さん(母の名)と長くお付き合いしています。そろそろ※※さんを連れて行こうと思っています」と言ったのだ。

 父は驚き、その夜、母を問い詰めた。

 もちろん、母には覚えがないから、「そんな男は知らない」と否定した。

 その男は一だけでなく、数度、父の許を訪れ、同じことを言った。

 父は怒り、母の兄のところにも連絡した。

 

 この話を聞いた家族や親戚は、「ついに認知症で頭がボケたのだな」と見なした。

 その頃、この話のことを私はまったく知らなかったのだが、後で聞いた時に、皆と同じように「認知症の老人が観る妄想」だと思った。

 母が亡くなった後、父とゆっくりと話をする機会があった。数度ほど親孝行のつもりで温泉に連れて行ったので、その夜に話を聞いたのだ。

 すると、驚いたことに、母の病気が進行するその折り目折り目の時に、その男が現れていた。父は妄想を思い描いていたのではなく、実際にその男と会っていたのではないか。

 他の者は信じられないだろうが、私は違う。

 当たり前だ。私自身が直接、私を冥界に連れて行こうとする者に会っているからだ。

 「しまった。それなら、母の死期を遅らせることが出来たかもしれない」

 父はその後、認知症の進行が止まり、普通に会話ができるようになった。

 

 さて、ここで考えるべきことは、「お迎え」とは一体何かということだ。

 あの者たちはどういう性質の者で、何をしようと言うのか。

 幽界、霊界を含め「あの世」に社会はない。よって「お迎え」は「仲間にしよう」とか「自分の世界に連れて行こう」というものではない。

 今のところ、私の意見は「死期が迫った時の匂い(気配)を嗅ぎ付けて、死霊が寄り集まって来る」というものだ。

 自我を持つ霊は幽界の霊(幽霊)だから、目的は「同化」しかない。

 複数が同化し合体することで、自我を強化することが出来、そのことで幽霊としての延命を図れる。

 もちろん、これは拒否できる。

 金太郎さんのように、「俺は行かない」と断ればよい。

 だが、いつもそれが有効とは限らない。

 「拒否しない」「出来ない」相手が現れた時はどうだろうか。

 俗説の一つは、「お迎えの本番では、肉親など親しい故人が現れる」と言う。

 亡くなった父母や夫や妻などが、「一緒に行こう」と誘ったら、おそらくその通りにする。

 そういうケースで、「死なずに戻って来た」人の話はまったく無いから、真偽のほどは分からない。

 

 もちろん、「お迎え」を意識しないで亡くなる人も多い。

 急な事故や事件で亡くなったり、病気の進行が速かった人については、「お迎えが来た」という話を聞かない。来ているのかもしれないが、気づいていないのかもしれないし、話として残らなかっただけかもしれない。

 ものは考えようで、こういう「お迎え」を「死刑宣告」と見なすのであれば、とても神経が持たないが、逆に「残りの時間を教えてくれている」と見なすのであれば、その時間を有効に使うことが出来る。

 半年一年という時間は、案外たっぷりある。

 そういう意味では、きちんと「お迎え」が来てくれた方が人生を充実させるのに役立つのかもしれない(有期限だが)。

 

 さて、「お迎え」が目の前に現れたらどう対処すればよいか。

 分かっていることは少ないが、いくらか対処法はある。

 

1)背中を向けないこと

 恐ろしさに背を向けてしまうと、そのまま捕まる。幽霊はほとんどの場合、後ろから抱き着く。

 そのためには、日ごろから「恐怖心に負けない」練習をしておくことだ。

 「相手の目を見て話す」べきなのは、生きている者に対するのと同じ。

 

2)冷静に断る

 「お迎え」は死神のように鎌を持っていないし、白いガウンも来ていない。

 ごく普通の風体だが、「これまでに観た最も恐ろしいホラー映画」の悪霊の何百倍もの迫力がある。

 それでも、きちんと正面から向き合って、「行かない」と断ることが大切だ。

 また、それが父母など近しい人であっても、「ひとのかたちをして現れる者」は総て幽界の住人(幽霊)だ。

 要するに、「皆、善良な者では無い」と思った方がよい。

 幽霊は悪霊ばかりがいるわけではなく、仲間のように見守ってくれる者もいるようだが、そういう者は見ているだけで何もしない。「善霊は見ているだけ。あれこれ指図するのは悪霊」と思った方がよい。

 善霊は何もしないのだから、いないのと同じ。

 もしあの世に社会や秩序があり、守護霊が手助けしてくれるのなら、この世はもう少しましなものになっている。そもそも「守護霊」など存在しないわけだし。

 あの世(この場合は幽界)にいるのは、「悪霊」と「何もしない霊」のふた通りだけだ。あとは総て想像や妄想で、生ける者の願望から生まれたものだ。

 生者の人生は、「生き方を自ら決定し」、「自身の努力で切り開く」のが鉄則だ。

 神に祈願する時は「大学に合格させてください」ではなく、「大学に合格できるように、(私が)一層努力し、集中できますように」と願うのが正しい。

 努力に見合わぬ褒美を与えるのは、多く「邪なもの」のことが多い。

 生と死は対になっており、現世のツケはあの世で払う。どこかで帳尻を合わせてゼロになれば、またやり直すことが出来る。

  

3)あとは、あの世の者に対処する時のルールを守ること。

 必ず死者に敬意を示すこと。相手の存在を認め、立場を尊重すること。

 なお、一般人にはお経や祝詞は不要で、むしろ逆効果になる。

 きちんとした対話を心掛ければ、何ら問題は生じない。

 私がその後四年も生き永らえているのは、おそらく、この最後の箇所が効いていると思う。

  もちろん、自分なりの信仰に従い、お経や祝詞を詠むのは、自身の心を安定させることでもあるから、これを否定するものではない。

 私が言うのは、目の前に「お迎え」「この世ならぬ者」に直面した時のことを言っているのだと補足しておく。

 

 ひとの命には限りがあり、無制限に延命することは出来ない。

 いずれ必ず死ぬのだから、ある程度死を迎える準備をしておく必要がある。

 もし、「お迎え」の到来を察知して、それを遠ざけることが出来たら、何がしかのオマケの期間が貰える。

 その時間を遣い、「よりよく死に、再生する」ための準備をすればよいのではないのだろうか。

 

 画像は27日のもの。その後、気が付いたことを付記した。

 割と判別しやすいケースだった。

 外見は「いかにも」禍々しいが、しかし、祟りをなすものではない。

 これまで、「霊」について語られて来たことは、大半が作り話で、想像や妄想に過ぎない。

 

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1月27日撮影