日刊早坂ノボル新聞

日々のよしなしごとを記しています。

◎昨年五月の追検証

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令和元年五月二十八日撮影

◎昨年五月の追検証

 昨年は年間を通じて異常事態が頻発した。

 一年が経ち、かなりましな状態になったので、ここで改めて「かつて起きていた事態」を振り返って見ることにしている。

 

 例年、四月から八月くらいまでは、さしたることは起きない。

 その意味では、安息期間とも言うべき季節だ。

 一昨年の冬から春までは、死期を間近に感じていたから尚更だった。

 常に傍に「何者か」に立たれ、耳元で囁かれたものだが、それも夏の間には収まった。

 

 画像を確認してみると、当時は気付かなかったことが目に付く。

 右腕が異常に膨れるのは、この後、七月頃にも起きている。そちらの回では、肘が猫の頭になっていた。

 神社猫のトラがこの時期に死んだから、最も身近だった私の許に身を寄せたのではないかと思っていたが・・・。

 

 二枚目の左肘を掴む指も当時は分からず、今になり気が付いた。

 だが、室内の台座の模様にも見えるから、今回は考え過ぎかもしれん。

 同じ構図で「背後から掴まれる」様子が時々画像に残っているわけだが、いずれも指が鮮明な上に胴体や顔まで写っていることの方が多い。

 家人の後ろに、眼の周辺のようなのが部分的に映っているが、こちらは「気のせい」ではないと思う。

ここは建物の庇の下で常時暗い。黒くなる筈だ。

 

その上、これは家人の顔によく似ている。

 「その場にいる者の姿を真似る」ことがあるのは、これまでも散々経験して来たことだ。

 こうすると写真を撮った者に気付かれ難くなる。慣れ親しんだ者の表情なので、つい見逃してしまいがちになるのだ。

 当事者たちが「幽霊に寄られている」ことに気付かなければ、幽霊の側は、ただ心に入り込むきっかけを待っていればよい。

 

 だが、生きている者がそれに気づき、「これは自分ではない何者か」だと見なすなら、それ以上は入り込むことが出来なくなる。

 これまで幾度となく、幽霊に背後から抱き着かれて来たが、それが理由で体調を崩したりしたことはない。持病があるから体調が悪かったりするが、幽霊のせいではない。

 「悪縁は心に取り憑くことしか出来ない」のだ。

 「こんなのはどうと言うこともない」と見なし、扉を閉じてしまえば、悪縁との縁は切れる。「自らドアを開き、招き入れなければ、悪縁は寄っては来られない」のだ。

 

 いずれにせよ、これくらいなら「気のせい」の範囲になる。

 やはりこの時期は、穏やかな季節なのだろう。

 ま、一年経つと、「声」は消えるから、目視出来る範囲の話になる。