日刊早坂ノボル新聞

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◎一年前の振り返り 「六月五日のお納め」

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令和元年六月五日撮影

◎一年前の振り返り 「六月五日のお納め」

 引き続き、昨年の振り返り。

 二日にポピー畑で「巨大な女の姿」が画像に入ったので、その他諸々までを含め、総てを納めるべく神社に参拝した。

 神社で自身を撮影すると、もやもやと空間が歪んでいた。昨年はほとんど気付かなかったが、ガラスの曇りとは違うようだ。周囲に筋が出ているところをみると、煙玉の出始める時に似ている。

 煙玉は1)「ごく小さい渦」から始まり、それが2)「けさらんぱさらん」のように周囲に筋を放射しつつ拡大し、最後には3)球状になる。その二番目のよう。

 

 念のため拡大すると、煙玉の一枚後ろに人影も寄り付いている模様だ。

 一番分かり易く、かつ見過ごせぬのは、私の首に黒い縄か蛇のような長いものが巻き付いていることだ。これが消しているので、私の首が分断されているように見える。

 これは二枚目の左上の画像が分かりよい

 

 この状態で良く生き残って来たと思うが、しかし、この手のは一年中起きていた。

 この先出て来るが、妖怪みたいな奴や半裸の女など、絶対に「良からぬもの」「悪縁」と思しき者が体を掴んだり、抱き付いたりしていたのだ。

 しかし、具合が悪いのは今に始まったことではなく、重い持病があるのは昔からだ。

 幾度か土俵際まで押し込まれ、心停止の経験すらある。

 幽霊が取り憑いたから具合が悪くなった、ということでないことは確実だ。

 

 ここで思い出すのは、昨年、原稿を書くための時間的猶予を貰えるなら、「仲間として振る舞う」と祈願したことだ。

 子どもの頃から、幾度となく「亡者の群れ」もしくは「百鬼夜行」が後ろをついて来る夢を観て来たので、さほどの抵抗は無い。

 このため、幽霊を見付けた時には、その都度ご供養をしている。

 果たしてそのことが関係しているのかどうか。

 ま、普通の人(=無防備な人のこと)であれば、この画像の状態であれば、覿面に体調が悪くなると思う。

 

 あの世の「声」を聴く限り、彼らは「自分を助けて欲しい」と望んでいることが多いのだが、しかし、そうでない者もいる。蛇みたいなヤツや半裸の女(西洋で言うスキューバス/サキュバスの仲間)は、救済など望んでいないことは確か。

 それでも「仲間」の意識があるのは、いったいどういうことなのか。

 

 ま、私は「善」とは程遠いから、悪霊の側が仲間意識を見取っても不思議ではないように思う。

 何せ、「気に食わないヤツに悪霊を送り込められれば便利だ」とか、「嘘つき政治家には三代続く祟りを与えたい」と思っているほどだ。

 そんなことは誰でも多少は考えることだろうから、本格的に「暗黒面に落ちる」ことのないように、ご供養の方を心掛けるべきだろうとは思う。

 何せ、「人を呪わば穴二つ」どころか、その穴に入った後も、延々と暗闇の中で過ごさなくてはならなくなる。なるべく呪わずに済むように、悪縁が勝手に(もしくは自然に)そっちに行ってくれれば助かる。

 傍観者的に「それも因果応報だね」と眺めている方が気が楽だ。

 

 今回の画像は「どこかおかしい」と気づく人はほとんどいないと思う。

 でも、じきに分かりよいのがどんどこ現れる。

最近、セルフガードが甘くなり、以前は人目に晒さなかったものまで、うっかり掲示してしまうようになって来た。

 慣れてしまうと本人は何ともなくなり、どの辺が「気持ち悪さ」の限界かが分からなくなってしまいがちだ。