日刊早坂ノボル新聞

日々のよしなしごとを記しています。

◎二年後の変化  (振り返り)

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平成三十年十一月十二日撮影

◎二年後の変化  (振り返り)

 昨日の画像では、撮影直後に見えていた「異変」が一時間後には消えていた。

 その場で確認したもののひとつが、白い霧の中から男の顔が飛び出している様子だった。

 男は口を開け、何かを叫んでいたが、それを見た瞬間、「どこかで見たことがある」と気が付いた。

 よくよく考えてみると、二年前に伊豆の旅館で窓ガラスに映った「叫ぶ男」の表情によく似ている。

 そこで、もう一度、あの画像を開き、確認してみることにした。

 

 撮影後から時間が経つにつれ、「東洋人顔」と「叫ぶ男」の双方とも、次第に薄くなり、今ではほとんど確認できないようにまでなっている。

 「(幽界の)霧」から発生する煙状のものは、時間の経過とともに消失するようだ。

 

 かたや、新しく出るものもある。

 当初の画像よりも、数多くの煙玉が私の周囲に増えているようだ。

 最初はその場に由来するものかと思っていたが、大半は私の方に関係しているらしい。

 どこにでも出るし、概ね私の周囲に集中する。

 

 また、これまで気付かなかったが、部屋の中に「スーツ姿」が映っている。背広の上下だけが見え、その中の人影の方は確認しづらい。部屋の出入り口の角(壁の端)と重なっており、見難かったようだ。

 手のところに煙玉があるので、手はそれで隠されたか。いずれにせよ、ここには衣文かけのようなものはないので、「空中に浮いている」ことになる。

 

 ガラスに映る私自身の影には額が映っている(光っている)。

 となると、この影は「こっちを向いている」ことになるが、通常は後頭部でなくてはならない。

 また、うっすらとだが、眼鏡(色付き)をかけ、マスクをしているようだ。

 このことは、これまで幾度も指摘して来たが、改めてこれを確認すると、さすがにあまり気持ちの良いものではない。

 その理由は、今現在の私の姿により近いからだ。

 一昨年でも昨年でもなく、コロナの影響でどこに行くにもマスクを掛けている今年の姿だ。

 心底より「予知とか予言のようではありませんように」と願う。

 この手の「予言」なら、あまり良い内容ではないと決まったようなものだからだ。

 

 「あの人は二年前に死の予告を受け、その通りに亡くなりました」

 これじゃあ、説明の出来ない不思議な話として都市伝説になってしまう(笑えねえ)。

 ま、もしそんなことになったら、必ず悪霊になり、この世に祟りの雨を降らそうと思う。

 もちろん、冗談だ。

 何らかの示唆がある(かもしれぬ)ということは、「改善の余地がある」ということだ。

 人生に必要なのは、「ひと握りの金」でも「愛情」でもなく「希望」だ。

 困難があり、挫折があり、そして山のように落胆もする。

 だが、それで当たり前で、皆同じ。今生のツケは死後に払うし、今、「苦労の先払い」をしている者は、腐らず前向きに対処すれば、いずれ必ず貯金を引き出せる(それも死後かもしれんが)。

 

 いずれにせよ、常に「きっと良くなる」「良くして見せる」と自身を信じることが肝心だ。安易に信仰を頼ってはダメ。「人事は自分で解決するもの」と思うこと。

 神仏にすがると、そこに付け込んで手を差し伸べてくれる者(この場合は「霊」のこと)が現れるが、まずは悪縁だと思った方がよい。総ての悪縁が「神」を自称する。

 良き親は子の成長を「極力、本人の意思に任せ、よほどのことが無い限り手を出さぬ」ように見守る。それと同じ。

 

 追記)あの「叫ぶ男」が今になって現れたとなると、それはそれで面倒ごとが一つ増える。ご供養するする相手がまたひとつ増えるわけだが、これは致し方ない。

 いずれも、あの旅館に居たわけではなく、あそこに行く途中で、私の出す煙玉を見てついてきたのではないかと思う。

 ま、外出する度にゾロゾロと連れ帰るので、次第に慣れては来た。