◎梅の花が開く(569)
これは三月三日の出来事になる。
悪縁を遠ざける簡単な方法は、「美しいものを見て感動することと、穏やかな心持ちになること。そして、よく笑うこと」だ。悪縁は人に悪心が無いと寄り付けぬから、自然と離れて行く。
それなら今は梅見の季節だから、梅の花を見物に行くことにした。
梅はまだ開いたばかり。昨年より少し遅いような気がする。
だが、実際、心が少し晴れる。親族や友が亡くなったのは、この季節のことが多かったから、少ししんみりするが、こうやって思い出すことが一番のご供養になる。
神殿に参拝したが、普段通りだった。
「それなら、このところの状況を考えれば上出来だ」
一週間ほど前に酷い悪夢を観てから、ずっと魘され続けている。
どうやらあの世(幽界)には、アモンらとは別の敵対霊団があり、緊張関係が続いているらしい。あの世は「善と悪」、「神と悪魔」みたいな単純な構図で成り立っておらず、ちょうど大気が幾つかの塊に分かれるように(大気団)、相対分離しているらしい。
ここで冷静に思い起こせば、悪縁を「倒す」のではなく、「慰め、癒す」主義が私の持ち分だから、あの「黒い女」に対してもご供養を施し、慰めることにした。
「それなら、ちょうど雛祭りの季節なんだし、ちらし寿司でも作ってやろう」
三日のうちには無理だが、二三日中に作り、神棚に供えることにした。
「黒い女」からすれば、誰もが忌み嫌う存在なわけで、慰めて貰うことはない。
となると、執着心を解くきっかけが得にくく、いつまでも悪縁のままでいることになる。
画像には、「イリス」の仲間らしき「女」が顔を出していた。これも先日の「黒い女」とはまた別になる。
人が多く集まるところにいて、人が背負って連れて来る幽霊を捕らえて、食う(自分に取り込む)ようだ。生きた人間の方には目立った変化はなく、多少心持が変わるくらいだろうと思う。もちろん、その人が悪心に囚われたり、何かに執着していれば話は別だ。矛先がその人に向いて来る。
イリスの視線が分かる人はそれほど多くないと思うが、仮にドキッとするようなら、長い時間見詰めずに眼を離すことだ。接点が生じれば、先方からもこちらが見える。
近くで見た時と眼を離した時とで、表情が違って見えるのは、元が一人ではなく複数が凝り固まって出来た者だからということだ。
アモンやイリスは、その人自身が悪心を抱えていなければ、何もして来ない。影響がないのだから、幾ら姿を見かけても「存在しない」のと同じ。幽霊三原則に従っていれば、何も問題がない。
ところで、最後の画像の右端の方に人影が見えるのだが、拡大するとはっきりしなかった。白い煙が出ているので、実体化の途中だったと考えられる。
遠目では、白い短いスカートを穿いた女性のように見えるが、脚はテーブルのものだ。白い煙はスカートか着物の裾のようにまとまりつつあるから、いずれはそうなるのだろう。
何十何百の意識の断片が凝り固まって、ひとつの悪縁になって行くのだろう。
帰りには厄落としをした。小銭はほとんど奉納箱に入れてしまったので、残りは箱に入れぬ一円玉だけだったが、これなら人に拾われることが無いだろう。
作法は幾度も記して来たが、社務所の人が分かりよい場所に、他の人に見られぬように、小銭に息を吹きかけ、そっと落とすというものだ。
どうしても厄落としをしたい時には、少し金額の大きいお金でやり、「拾って貰う」という手がある。
よって、「境内に落ちているお金」は「誰かの落とした厄」だから、基本的に拾わぬようにすることだが、もし拾ったらそのまま奉納箱や賽銭箱に入れるとよい。
切羽詰まったら、お札を折り畳んであえて人の通るところに落とすという手もあるが、これではもはや「呪(まじな)い」になってしまう。お札なら必ず拾う人が出て、たぶんポケットに入れる。その人は「厄」を持ち帰ることになり、「厄」はその人に移る。
こういうのは目に見える結果にはならないが、あとでじわじわと効いて来る。
よって、十円、五十円か百円にして置くのが無難だ。五円(ご縁)は「他人に渡す」意図がアリアリだからなるべく避けた方がよい。
帰路にはちらし寿司の具材を買って帰った。下拵えがいるから、作るのは五日。
少しでも「黒い女」が慰めばよいと思う。
一週間続いた悪夢が完全に消え、心も体も軽くなった。予期していた「二月の危機」は現実に来たが、不整脈が一回あったきりだ。仮にこれで越えられるなら助かる。
ただ、アモンは有言実行の塊だ。
どうか近日中に「十年後にまた地震が来る」という事態にならぬことを願う。