◎家紋で困った (『北奥三国物語 鬼灯の城』ノート)
戦国南部家臣の東中務が「三百騎をもって釜沢館に駆け付けた」と書く段になり、手が止まって三日目になる。
ちなみに、東中務は「信義」(地方史では「直義」となっている)のことで、後の「朝政」に該当する。
岩手県内の市町村の郷土史料を調べていると、戦国末期の地侍のことについて、「南部信直の諱から一字を貰い、▽◇と称した」みたいな記述が「判で押したように」書いてある。
世の中が落ち着いた頃に「南部家」の藩史を整えるのだが、その時に「先祖の威光を示すべく」書き加えられた一文だ。
本当かどうかは疑わしい。
諱は普段使わない名だし、戒名と変わらない。使うのはほとんど死んだ後だ。
何十何百の地侍が「信直にあやかって」、一様に「信※」「直※」「※直」と名付ける訳がない。
きれいに書いてある話は、大体が作り話だから、当方は「信義」を採用した。どうせ小説は作り話だし、案外、こっちの見方が正しいこともある。
書いてあることをまるごと信用するようでは、「高級官僚が忖度で公文書の書き換えを指示した」というのを信じるバカと変わりない。あんなの、こっそりと「直接には利害関係の無さそうな誰か」が行って、「後々悪いようにしないから、分かってるね」と伝えたに決まってるだろ。
(毎日、誰かの首を切り落としているので、ここは表現が荒い。)
ところで、東信義(直義)は後年になり、諱を「朝政」に替えているが、これは戦国の動乱が落ち着いた後だから割と信ぴょう性が高い。
一読して分かるが、これは南部家の「晴政」から取ったものだ。
晴政は南部信直の先々代当主で義父であり伯父にあたる。晴政は、たぶん信直と北信愛の陰謀で殺されたが、東がことさら「晴政」の名に引き寄せたのは、信直に対し「快からぬ思い」を抱いていたからだろうと思う。
その東が釜沢館に向かうのだが、敵ではなく中立の立場であることを示すために、先兵に「幟旗を横に掲げ」させる。「戦いに来たのではない」と示すためだ。
すると、さあ、そこでその幟旗には紋が記してあるはずだが、それは何だったかということになる。
これで手が止まったわけだ。
一度、北奥の地侍の家紋を調べ、資料として保存していたが、どこかにやってしまった。
ひとつだけなら段ボールを開けて調べるより、その対象となる人物を調べた方が早い。
東家は南部家の傍流だから、たぶん、それと近いものを使った筈だ。
南部は「向鶴(南部鶴)」だが、元は「武田菱」。また、合戦の場では「九曜」で陣を張った。
たぶん、このうちのどれか。
幕末の東次郎という家老職は「九曜」だったが、これは東信義の直系ではなく、傍流(分家)のほう。
念のため、現在、盛岡在住の東さんで、「元は盛岡藩士」だった家の家紋をSNSで調べると、「向鶴」と「武田菱」の両方が掲げられていた。
仕方なく消去法で行くと、まず「向鶴」は使わない。遠目では文様が見え難いからだ。
幟旗を掲げることの意味は敵味方の識別を容易にすることにある。
となると、「武田菱(割菱)」か「九曜」だ。
「奥州再仕置」の際、東は南部方に参陣したが、攻める相手の九戸は「七曜」の紋だ。
戦場で「九曜」と「七曜」では見極めに困るから、いずれ多用するのは「武田菱」の方ではないか。
「割菱の幟を真横に掲げた兵士が・・・」と記したいのだが、そこで躊躇している。
どうせ作り話なんだから、「こんなことはどうでもよい」と思うが、何か根拠が無いと腰が退けてしまう。
この手のことでいちいち止まってしまうが、そんな躊躇が許されるのは、「来年も三年後も、たぶん、生きている」と信じられる者だろう。
すごく歯痒い。
ところで、『鬼灯の城』の筋は、表向き「マクベス」へのオマージュなのだが、裏筋は「何故に東信義が信直を悪しざまに思うようになったか」というものになる。
福田・切田連合軍が釜沢に寄せるのだが、すんでのところで東中務が仲裁に入る。
釜沢淡州が「九戸に寝返った」という証拠はない(今のところ)。
合戦はギリギリのところで不発に終わるが、福田、切田や北信愛らの讒言により、九戸が陥落すると、北奥戦団は即座に「釜沢攻め」に向かうことになる。
釜沢を滅ぼす理由は、「九戸攻めに参陣しなかったから」という理由だ。これは羽柴秀吉が小田原攻めの後で使ったレトリックと同じものだ。
昨日、「呪縛」が少し解けたので、原稿が書けるようになった。
そうなると、徐々に精神的に安定する。
つい嬉しくなり、こんな余計なことまで書きたくなる(苦笑)。