◎記憶力が怪しい件
『鬼灯の城』の原稿を書いていて、東中務尉信義(直義、朝政)の通称名が何だったかを思い出せなくなってしまった。
東信義は、祖父が中務政勝で、両方とも「東中務」と文書に書かれていたから、どっちがどっちだかが混同されるきらいがある。
もちろん、諱は呼び名として使われなかったから、「信義」等が言い伝えに出て来ることは無い。
「南部家の血筋だから、九郎か八郎じゃねーか?」
ま、長男には、その家ごとに決まった呼び方がある。
南部信直の幼名は「亀九郎」、「九郎」とされているが、他家から来た書状には「彦九郎」と宛名されている。
ま、これは「跡取り」の代名詞だ。
うーん。
自身の書付を検索しようと思ったのだが、書庫が大量にあり過ぎて、到底調べきれん。
この辺、私はコテコテの凝り性だ。
しかし、何だか「八郎」だったような気がする。
時間が過ぎる中、「八郎」が次第に確信に変わる。
だが、ふとした瞬間にガラガラとこの確信が崩れてしまった。
「俺が八郎だと思ったのは『東八郎』が耳に残っていたからだわ」
アズマハチローさんは僕らの「なまか」(苦笑)。
やたら万券を出すのは息子の方で、その奥さんが「ヤンキーの憧れのマドンナ」の安めぐみ。
だが、今、必要なのは「ひがし」の方だよ。
しかし、ここで思いついて、自身のブログを検索してみた。
SNSやブログはメモ代わりだから、たぶん、どこかに書いているはずだ。
すると、すぐに出た。
「東彦八郎」
おお、割といい線行っていた。
東信義(直義)は上方軍が奥州再仕置きで北伐に来た際に、案内役として、和賀や稗貫に帯同した。
主に浅野長吉(後の長政)についていたようだ。
その当時の東は「中務」や「彦八郎」という名が混然としている。「直義(信義)」「朝政」はかなり後になって記された。
この周辺の記録は主に口碑主体で、言い伝えだを記したものだから、あやふや。
そこは「書かれているものをそのまま信じてはいけない」という鉄則がある。
ま、扱いの重さから見ると、たぶん、同一人物だろう。
実際、ブログの記述にも「彦八郎と解釈しよう」と自分で書いてあった。
これは小説の話だから、歴史をそのままなぞるのが目的ではなく、「心情を汲み取る」ことに重心が置かれる。
そこを勘違いをする者がいるし、自分でも忘れてしまうのだが、細かいことにこだわり過ぎると説明的になり過ぎてしまう。
時に私のように「そもそも描写が下手」な者には致命的だ。
ま、多くを望み過ぎたり、表現の巧みな人を見て自分を卑下する必要は無し。
私は自身の次女の文章表現力に比べれば、ゴミくず同然だ。その次女は自身の持つ能力を顧ず、経営者になろうとしている。
大体はそんなもんだ。
「自分なりの道を進めばよい」ということ。