日刊早坂ノボル新聞

日々のよしなしごとを記しています。

◎どっと出て来る(544)

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令和二年十一月二十三日撮影

◎どっと出て来る(544)

 ふたつ前の神社参拝の折に、赤外線装置が二つとも停止した。

 そのうち、カメラのメモリCを取り出し、再フォーマットしようとしたら、別に異常はない。家の中を撮影すると、普通に撮影出来た。

 「となると、いよいよ神殿の前に立った瞬間に動かなくなった、という意味になるぞ」

 こいつは不味い。

 うっすらと感じていたが、「撮影するな」という警告だったのではないか。

 イケネ。不敬を働いたか。

 こういうのは即座に対処しないと、また就眠中に足を引っ張られる。

 「あの世」の怖さは、現世とは違うから、それで掴まれると、そのまま「あの世」に引きずり込まれてしまうとところだ。ルールの基盤が、「現世」すなわち頭で考えたものとは違う。

 

 そのことに気付いたので、朝一番で飛び起き、再び神社に参拝することにした。

 「これは早いとこ、詫びを入れて、許してもらう必要がある」

 そう考えたのだ。

 朝の仕度をして、すぐに出発したが、当家からいつもの神社までは小一時間掛かる。

 神社に着いたのは、十一時近くになってしまった。

 

 境内には、参拝客が溢れている。

 「こりゃまた何で?」と思ったが、この日は休日で、しかも祭礼日にあたる。

 新嘗祭の日だった。

 神楽殿で、巫女さんたちが踊りを見せてくれたのだが、生憎、到着が十五分遅かったようだ。見られたのは、最後の御挨拶だけだった。

 ああ、なんてこった。

 でも、やはり心が洗われる。神社の「しきたり」の良さはこういうところだ。

 

 神殿に上がる階段の途中で、赤外線カメラのスイッチを入れると、つい一時間前には異常のなかった機器が、再びフリーズしている。

 「やっぱりそうだったか」

 そこで、「失礼の段はお詫びします。でも、世間の者は眼も見えず、耳も聞こえぬ者たちです。その者たちの見えるように示さないと理解できないので、少しで良いですから許してください」と声に出しながら、神殿前に進んだ。

 周りは参拝客だらけだから、やっぱり変に思われただろうが、祈願は頭で考えるだけではダメで、言葉に出して伝える必要がある。

 

 今はもう「この世」と「あの世」が交わる季節に入っているし、一年前から地獄の蓋が開き、亡者が「この世」に這い出ている。

 神殿前に立つと、やはり視線を感じる。

 この感覚は、同じ悩みを共有するものでしか理解出来ない。圧力が本当にすごい。

 

 あっちこっちに性質の違うものがバラバラ出ており、対処に困るので、重要な箇所だけ記録に残すことにする。

 一枚目の画像では、窓枠の右側にコートを着た人影がある。

 前に並ぶ行列とは離れているから、現実にはそこにいない者だということが分かる。

 ま、位置関係を考えずとも、190㌢近い身長と頭と首の離れ方が異常だし、顔も獣のようだ。あまりよろしくない者であることは疑いないが、しかし、何かをしようとするつもりはないようだ。

 

 二枚目のは、私は既に目視しており、その相手の前に立ち、ピンポイントで撮影しようとしたのだが、参拝を終えた老人が急に歩き出したので、死者の姿が遮られた。

 視線は他にも沢山あるが、この画像のはあまりはっきりしない。

 

 三枚目が本題だ。

 私の前には、夫婦らしき二人連れと、去ろうとするご婦人だけ。私の後ろには、一人か二人の参拝客がいる。

 私は自分自身を撮影したいので、人の合間に立ち撮影した。

 すると、窓ガラスには私の前に立つ男性の左手がかなり鮮明に写っていた。

 ここですぐに目が留まる。はっきりした視線があるのだ。

 よく見ると、手の前にうっすらと人のシルエットが見える。中の調度の足と重なっているから、若干見え難いが、女性の姿が立っている。

 二十歳前後の女性だ。髪は肩にかかるくらい。

 朧げなのだが、私的には大納得だ。何故なら、先日、さいたま市に行った折に、車の中に乗っていた女性の姿と同じだったからだ。

 「おお。やはり連れて来ていたか」

 男性の手の甲と重なっているから、逆に見え難いのだが、当事者だからすぐに分かった。

 

 しばらくは、この女性は私と一緒にいることになるようだ。

 いずれ、女性自身が育った家に当たると思うが、その時は、はっきり分かると思う。

 この女性は時々、親を思い出して泣くのだが、このため、私は自分でも知らぬ間に涙をこぼしている。

 意味は違うが、「同行二人」と言う言葉が思い浮かぶ。

 ひとまず「仲間」が出来た。

 トラが去ってから心寂しく思っていたが、また連れが出来たのは心強い。

 もちろん、いずれ女性は得心して去って行く。

 

 さて、この日の本題は、前に立つ男性だ。

 頭を掻き上げる男性の姿がガラスにも映っているのだが、男性の頭の陰にもうひとつの頭が見える。もはや実体化しているから、黒髪が鮮明だ。

 「女だ」

 男性の頭にくっつくような位置だから、背中に背負っているか、抱きつかれているかのいずれかだろう。

 男性の左手にも、少し小さめの手が重ねられている。

 その手には、恨みの籠った眼が開いている。

 この女がどういう性質のものかは、この眼を見れば一目瞭然だ。

 

 何をすればこんなことになるのか。

 最初は「浮気をしており、相手に恨まれているのか」と思ったのだが、とてもそういう次元ではないようだ。

 もし男性に何かを助言するとすれば、最初に訊ねるのはこれ。

 「貴方は、少し前に女の人を殺したりしていませんか」

 あるいは、自死に追いやるくらい酷い仕打ちをしたか。

 

 幽霊が手を出して、直接、生者に何かをすることは滅多にない。

 通常は悪心を吹き込むだけだ。

 だが、この状態では、現実の惨事に至る可能性がある。

 禊をして、きちんとお詫びをし、ご供養を施す必要がある。

 いつも書く通り、悪縁が祟りをなして、災いをもたらし、相手を死に追いやるのは、あくまでホラー小説や映画の話だ。本物は、主人公が死んでからが本番で、それにはなかなか終わりが来ない。小説や映画より、そっちのほうがはるかに酷い。

 エンドクレジットが出てくれぬのだ。

 これを避けるには、常に自身の生き方を振り返り、自省することが必要だ。

 一生を「死ぬまで」ではなく、「魂が解放されるまで」というタイムスパンで眺めることが肝要だ。

 

 もっと由々しい事態は、男性が自ら何かをした結果ではなく、「どこかで拾って来た」ケースだ。まったく身に覚えがなく、こんな悪縁に寄られるのなら、いよいよ地獄の底に居る酷いヤツが地上に這い出て来たということだからだ。