日刊早坂ノボル新聞

日々のよしなしごとを記しています。

◎気にし過ぎぬことが大切(518)

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令和二年七月二十五日撮影

◎気にし過ぎぬことが大切(518)

 土曜は通院日。人生の半分を病院で過ごすわけだから、次第に慣れて来た。

 ただ、使える時間が半分以下なので、その点は「耐える」しかない。

 自身が「いつまで経っても先に進めない」状況を受け入れねばならないからだ。

 そこで、生きて行くために絶対に必要なもの以外は、全部捨てることにした。

 道楽を撤収、各種会合にも出ない。「友達など要りません」「付き合いなど知ったことか」と公言するようにした。「出るのは親の葬式だけです」。

 こういうのは当事者にならないと分からないから、説明もしない。他人の理解など必要なし。目の前に「あの世」が見えているのに、そんなものが何の役に立つ。

 それが今の状況だ。

 

 脱線したが、とりあえず、病院に向かった。

 「朝の上りでも止まるのか?」と思いつつ、エレベーターに乗ると、見事にドアが閉まらなくなった。さすが私だ。こういう予想はきっちり当たる。

 もちろん、まったく嬉しくない。三年前くらいの「東京五輪は見られない」の予感と同じで、的中しても全然嬉しくない。ちなみに、当時は「自分自身が死ぬから」だと思っていた。

 病棟にいると、トイレに行きたくなったが、病棟のトイレが「使用中」だった。

 そこで、ロビーの障害者トイレを使おうと、エレベーターに乗ると、またドアが閉まらない。

 思わず、「もういい加減にしてくれ」と呟く。

 ここから始動するまでは、概ね二分掛かる。これはこの数日、いつも同じだ。

 トイレから出て、三階に上がろうとすると、またドアが閉まらない。

 「閉」ボタンを押しても、うんともすんとも。

 ボタンに触らずにいると、上で誰かがスイッチを押したのか、自然に閉まり、出発した。

 

 ベッドに戻ると、看護師長が来たので、「こないだの帰りにも、ついさっきも止まりやがった」と報告した。

さらに「エレベーターを点検してくれる?機械の調子が悪いのかも」とでっかい声で言った。要するに、「気にしない」ことにしたのだ。

 治療が終わり、階下に下りる段には、腹を括り、最初からカメラを構えてボタンを押した。

 「出てみやがれ」

 すると、すんなりドアが閉まり、出発した。仕方なく、途中で鏡を撮影したのだが、それが最初の画像だ。ちょうど二階に下りる途中だ。

 

 「何となく、体が軽くなったような」

 まるで背負っていたものを下ろしたかのような気がする。

 確かに、こういう出来事から逃れる手立てのひとつに「気にしない」というものがある。

 「何か」がこちらを支配し、影響力を保つためにあれこれ画策しているなら、「気にしない」ことで、それが無効になる。「呪縛」が効かなくなるということだ。

 これは「軽んじる」ということとは違うので、念のため。

 「大変だ」と思うか、「こんなのはどうと言うこともない」と思うかの違いになる。

 起きていることは同じだが、ものは考えようだ。

 

 病院を出たところで、「最初から丁寧にやり直そう」と思い直した。

 そこで、真っ直ぐ家には帰らずに、N湖までご供養に行くことにした。

 おそらくきっかけはあそこになる。

 途中で土砂降りの雨になり、「通行止めかも」と思ったが、ま、それはそれでよし。

 少しゆっくり付き合うつもりで、途中のスーパーでお弁当を買った。

 お弁当はまだ暖かかった。

 「おお。初心に返ったな。地域スーパーが大手チェーン店に勝つためには、作り立てを出すことだ。冷凍食品を温めた味にはすぐ飽きるからな」

 

 強い雨が降っているのに、N湖には見物人が沢山来ていた。

 しばらく車の中で座っていると、次第に雨が弱くなった。

 お焼香をしようとしたが、まだ小雨が降っているので、車の窓に香炉を備えた。

 

 お焼香が終わり、お弁当を食べようとしたが、箸を貰うのを忘れていた。

 ダメじゃん。おにぎりならともかく、野菜天ぷらだし。

 ここまで来てお持ち帰りかよ、とこぼす。

 ここでふと五年前のことを思い出した。

 郷里を車で訪れた際に、夜に出発して関東に向かおうとした。翌朝、所用があったからだ。

 その時、母がお弁当を二つと箸を三四本包み、半ば強引に車に押し込んだ。

 「サービスエリアがあるから要らないよ」と言うと、母は「念のためだよ。何かあるかもしれないし」と笑った。

 ま、実際、降雪で三十時間以上、道路の上にいたことがある。もちろん、そういうのは何年かに一度の話だが。

 

 その時、帰路の途中で余分な箸をダッシュボードに入れた記憶がある。

 そこを探してみると、奥に箸が残っていた。

 「母親は有難いなあ。これが『もしも』の時か」

 五年が経ち、今になり実現した。

 

 私は不肖の息子だが、母はずっと諦めずに支えてくれた。

 自分が子を持つようになり、初めて親の気持ちの一端を理解するようになっている。

 「どうも有難う」

 母にはあの世から「子や孫を見守る」ことなどせず、先に進んでほしい。

 生きている者の処理は、生きている者自身がすべきだし、もはや愛惜の念から解放されてほしいと思う。

 

 帰路にはいつもの神社に参拝した。N湖で、また別のを連れ帰るとも限らないからだ。

 写真も撮影したが、さすがに天気が悪く、上手く写らない。

 フェイク(たまたま)のものに、幾らか本物も混じっているようだが、この画像では良く分からない。確実なのは「眼」で、これは前々からここで写るものと同じ。

 「煙玉」みたいなヤツや、「眼」なら、どんな場所でも常時写るので、気にしてはいられない。

 

 「いつもの通り、怖れぬこと、敬意を示すことと、気にし過ぎないことだな」

 気にし過ぎると、何でもかんでも「悪縁」に見えるようになるし、結果的に心を操られてしまうことにもなりかねない。

 もはやこんな体だし、頑張りも利かないが、ものは考えようだ。

 前を向いて一つひとつ片付けて行くしかない。

 

 ちなみに、こういうことは私一人に起きているのではなく、誰の身にも起きている。

 ただそれと気付かぬだけだ。

 「心(感情)」は自分一人のものではない。

 そのことが、こうやって記録を残す理由でもある。