◎季節は秋に向かう(524)
水曜の朝、家人を駅まで送ろうとすると、家を出掛けに家人が何やら息子に言い付けていた。
「オトーサンのことを見張ってなきゃ駄目だよ。足が悪いのに、またどこかに出掛けようとするからね」
家人が振り返ると、ダンナがすぐ前に立って聞いていた。
「そんなわきゃないだろ。この足では歩けねーし。今月の支払いをしに銀行に行くくらいに決まってるだろ」
午後になり銀行に行くことにしたが、夜型の息子は寝入っていた。
「とりあえず、銀行に行くが、どうせ外に出るんだからな」
ここで我に返ると、家人の言ったとおりの展開になっていた。
ま、そんなもんだ。
この日は月末の給料日直後で決済日前日だから、金融機関はどこも混雑している。
小一時間も待たされたのでは溜まらんから、N湖の近くの郵貯に行くことにした。
何せあそこは「待ち時間ゼロ秒」の窓口だ。
ついでにN湖でご供養も出来る。
N湖に着いた頃には4時近くになっていた。
湖畔では、いつも通りC.イーストウッドになった気分で、「いやあ、待たせたな。俺が来たからもう大丈夫。この俺について来ればよい」と告げた。
湖畔でお焼香をしてから、お弁当を食べた。
見物人の数がそれほどでもなかったのは、夏休みが終わった平日だからか。
湖畔のレストハウスは休みだったが、前で写真を撮った。
日輪や蒸気玉など自然現象と一緒に、少し首を捻るものが写ったが、別に問題ない。
どういう性質のものであっても、いずれにせよ、私の場合は何時でも写る。
ここで考えたことは、「気持ちを明るくすることの効果」だ。
もしかして、極力、ポジティブに考え、笑いをに溢れた暮らしを送っていれば、悪縁は寄り付かないのではなかろうか。
もしそうなら、悪縁防御のための特別な配慮は不要になる。
ただ毎日を「楽しく暮らす」ことだけを考えると良い。
「でも、たぶん、人間関係的には、もっとも嫌われるタイプだろうな」(笑)
そもそも私のような我が道を行く性格の者は、他人のことなどまったく配慮しないのに、それでいて、ヘラヘラ楽しく暮らしていたら、それを見た者はきっと腹を立てる。
もちろん、元々、「人間嫌い」なのだから、そんなのはどうでもよいわけで。
「でも、俺みたいに三重苦、四重苦の状態の人間が『笑って暮らせ』と言われても」
さすがに難しいぞ。
ともかく、そこから神社に向かった。
神殿前でファインダーを覗くと、既にそこで気配が見えるのだが、最近は画像の方が鮮明ではない。夏場はいつもそうだし、目視で見えるということは、赤外線側ではないということだから、むしろ写りにくくなるのかもしれん。
ま、そんなことはどうでもよい。
ここで写真を撮るのは、自身の状態を確かめるためであって、「あの世」の状態を覗き見ることが目的なのではない。
自身を確認し納得することが重要だ。
何をどうやっても、いずれ程なく、私はこの人生を終える。死出の旅仕度は、生きており、なるべく余裕のあるうちに積んでおくに限る。
死が間近になってから、慌てて信仰に目覚める人がいるが、それこそ「困ったときのなんとやら」で、もはや冷静ではなくなっている状態だ。
そんな状態で神仏に幾らお願いしようと、何も返って来ない。
普段は「あの世」のことを舐めてかかっているのに、いざ「説明のつかない」現象が起き始めると、その途端に霊能者や祈祷師にすがろうとする者がいる。
そんな人はただ単に大金を巻き上げられてそれで終わり。
何事も「日頃の積み重ね」からで、元々、自分自身で解決するものだし、それが最も簡単で有効な打開策になる。