日刊早坂ノボル新聞

日々のよしなしごとを記しています。

◎吾野に水を汲みに行く(531)

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令和二年九月二十八日撮影

吾野に水を汲みに行く(531)

 月曜朝に今月の支払いを終え、帰宅したが、美味しいコーヒーが飲みたくなった。

 「美味いコーヒーなら、湧き水で淹れるに限る」

 水道浄水やミネラルではなく、ここは湧き水だ。

 そこで、まず水を汲みに行くことにした。

 ネット検索すると、飯能の吾野に水量の多い湧き水があるようだ。

 それほど遠くないし、早速、出掛けることにした。

 

 しかし、当家の車は私並みにポンコツだし、カーナビは家人並みに方向音痴だ。

 吾野駅至近の法光寺墓地付近に行ったが、その先が分からない。

 ウロウロしたのだが、常に後ろに車が迫っている状況だったので、結局、通り過ぎてしまった模様。

 仕方なく、少しドライブすることにした。

 「お昼時だし、どこかで蕎麦でも食べよう」と思ったのだ。

 

 結局、十七八キロ離れた芦ヶ久保の「道の駅」まで車を走らせた。

 月曜だが、秋の行楽が始まっているようで、車も人も満杯だった。

 ここでもあっさり諦め、もう一度来た道を戻ることにした。

 今度は車のカーナビではなく、スマホのを使ったのだが、先程通り過ぎた道をそのまま戻り、再び法光寺の前に出た。

 先ほど、車を停めて地図を確かめた場所だ。

 すると、よく見ると、駅方面に向かう小道があり、その先が法光寺墓地になっている。

 スマホがそっちを指すので、進んでみると、墓地の向かい側に「吾野湧水」という札が見えていた。

 「なるほど。すぐ前が墓地だから、湧き水は無いと思い込んでいたわけだ」

 事前にネットで検索したが、墓地のことは一切触れられていなかった。

  墓地と同じ山に湧き水があるから、おそらく誰もが言及を「憚った」ということだ。

 

 だが、こういうのは、きちんと書くべきだと思う。

 もとは同じ山で、山の斜面を削って墓所を造成した。

 そして、湧き水は少し下の方にある。

 ほんの少し考えさせられたが、「伏流水は地下十数㍍の深さを流れている」ことを思い出した。かつ、数キロ以上先の山から地中を流れている地下川がここで水圧を増して地上に噴出したものだ。

 この墓所とはまったく関りはない。

 そこで、滾々と噴き出る水をポリタンクに受け、持ち帰ることにした。

 法光寺の駐車場から、下を見下ろすと、線路向こうに吾野駅が見えていた。

 

 最後にもう一度記すが、老病死を「けがれ(気枯れ)」と見なし、見ないようにするのは、根本的な認識の誤りだと思う。「死」は途中経過に過ぎぬのに、何故忌避するのか。死者には敬意を示すべきで、避けるべきことではない。

 帰路は神社に参拝した。これが531日目の参拝になる。