日刊早坂ノボル新聞

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◎今年、最も鮮烈だった幽霊の画像

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令和二年一月二十日、及び十一月二十三日撮影

◎今年、最も鮮烈だった幽霊の画像

 あとひと月で今年も終わりになる。この一年の「あの世探索」を振り返ってみると、幾つか重大なエポックがあったが、その中でも「あの世(幽界)が存在すること」の実証に一歩近づいたのが、この一月の画像だ。

 

 令和二年一月二十日。お正月の初詣がひと区切りし、世の中が平穏を取り戻しつつある頃に神社に参拝した。

 神殿の前に参拝客は居らず、拝礼を終えて帰る客がいただけ。

 割と中央に立ち、いつも通り、ガラス窓に映る自身の影を撮影した。

 

 この画像を開くと、幾つか人影が写っている。

 はっきり分かるのは私を含め四人だ。私の他には、男が一人(A)に女が二人(BC)の構成となっている。

 画像を見ていたが、理屈に合わないところが多々あるように見える。

 そこで、その後になり、自身や他の人物の位置関係や人影の見え方を調べるために、5、6回神社に赴いて確認した。

 その結果、「理不尽に見える」理由を突き止めた。

 

 男Aはたぶん、実在の人間だと思う。垂れ幕(暖簾?)の高さが百八十㌢台後半なので、この人は百七十㌢台くらいの身長だ。この時まさに階段を降りようとしているところ。

 要するに、この人は門を一歩出たところのステップ(踊り場)の上にいる。

 何の違和感もなく、ここを通る人を実写撮影した時と同じだ。参拝を終え、帰ろうとする人がまだ居たことに私が気付かなかった、ということ。

 

 問題は左側の女二人だ。

 まず女Bは私の後ろに居ることが分かっているので、このBが居るのは門の陰しかない。

 女は門の柱から少し前に出ており、大半が柱の後ろに隠れている。

 頭と肩から下の衣服が少しだけ見えているが、首の部分が顔一つ分の長さになっている。首長族でもない限り、この首の長さは尋常ではないと思う。

 仮にこれが実在の人ではなく幽霊だったとすると、疑いなく自死した者だ。

 首を吊った時に骨が外れると、時間の経過と共に体の重みで首が伸びる。一日二日発見されずにいると、「自死した霊は死の直前直後のままの状態で留まる」規則の通り、この姿になった。

 

 女Cの方は二通りの見方が出来る。

 まずは体の大きさだ。この大きさを私と比較すると、私より前に居ることになる(イ)。

 ところが、私の前には現実には人が居なかったので、これは棄却される。

 もう少し私に近ければ、肩越しに撮影することで実際の姿を消すことが出来るが、離れているのでそれは不可能だ。

 もう一つは「門の外に居る」というケースだ(ロ)。後ろを振り返り、女Aは女Bを見ているようなしぐさをしているから、こう考えた方が理に適う。

 ところが、女Bの立つステップより外側は階段になり、急に下っている。要するに、女Cがそこに立つには、空中に浮いていなければならなくなるのだ。

 一見した印象では、何でもない普通の写真に見えるのだが、実際には幾つもの「アリエネー」状況が積み重なっている。空間と光の物理的なルールに従っていない。

 

 ウェブ画像ではサイズを縮約しており、目視は難しいだろうが、女Cは左手に何かをぶら下げている。どうやらひとの頭のよう。その隣には、獣のような能面のような顔が半分ほど覗いている。私はこの女の正体はこれではないかと思う。

 (ま、ここは鞄と重なっているから、確たることは言えない。)

 「姿を鮮明に表すことが出来ること」「サイズを変えられること」等から見ると、かなりの悪縁(霊)で、この場面は、この「女Cが自死者である女Bを発見した」瞬間を捉えたのではないかと思う。

 

 死後、執着心を抱えた幽霊は、自我(自意識)の存続のために、同じような心根を持つ他の幽霊と同化し合体する。それを繰り返すことで、自我が強化され、「念」を使えるようになって行く。この流れを端的に示すような画像だ。

 私はいわゆる心霊写真を見ても、今では何とも思わない。幽霊はほぼ「心だけの存在」であると分かっているからだ。だが、この画像には不快感を覚える。同じことがもし死後に起きたら「怖ろしい」とも思う。

 

 さて、私がこの画像を探した目的は、実際には女Bの方にあった。

 この画像では、女Bが柱の陰から顔を出しているが、数日前に赤外線カメラで撮影した画像にも、同じ構図で「女」が写っていた。

 そこで、この女二体が果たして「同じ者」かどうかを確かめようと思ったのだ。

 眼球が眼窩から半ば飛び出している(眼鏡ではない)のは同じだが、しかし、別の者のようだ。同じ雰囲気を漂わせているのは、自死した者という共通点があるからだろう。

 

 この神社の神殿付近は、かなり強い霊場であり、霊気が集中している。

その境目が神殿の周辺らしく、内門より中に入って来る者はほとんどいない。

 人の背中に取り憑いている者か、「ベラ」のような魔物級の悪縁(霊)だけだ。

 もちろん、そういう者でも、この領域の中では何もできない。そういう意味では神域であり、聖域と言ってよい。

 

 かつて、神社猫のトラはそういう霊気を感じ取り、階段のところまでは行っても、そこから中には絶対に足を踏み入れなかった。

 あの猫には、ここに集まる幽霊や魔物たちの姿が見えていたのだろうと思う。

 

 いつも通り、最後は注意書きになる。

 幽霊の姿を見たり声を聞いたりしたからと言って、別段それで怖ろしいことが起きるわけではない。原則として、幽霊が関わるのは「心」に対してだから、自身を強く保てていれば何ひとつ問題は生じない。

 必要なのは次のことだ

 「怖れぬこと」:「怖れ」は心に隙間を作る。過度に怖れることは「扉を開く」ことに同じ。もちろんだが、「怖れぬ」のは「たかをくくる」のとは違う。

 「敬意を示すこと」:まともな者は初めて会った者をいきなり殴りつけたりしない。それと同じで、まずはきちんと挨拶をして、お互いに不快を感じずに済むようにすること。いきなりお経や祝詞真言を投げつけてはいけない。

 「好奇心の対象にしない」:上と同じこと。嘲ったり笑ったりせず、探検も止めること。

 スポット探検で死者の報復を受け酷い目に遭った話を聞くことは少ないだろうが、それは死者の怒りに触れた人が「すぐに居なくなった」から。いざ怒りに触れれば、本人だけでなく関係者・無関係者を問わず総てに及ぶ。これは理屈ではない。

 「相手との間に境界線を引くこと」:自分はきちんと相手を見ていることを知らせ、互いに立ち入らぬようにしようと告げること。 

 たったこれだけだ。これを守れば、幽霊が平気になる。

私は時々、幽霊に抱きつかれるが、原則を守っているので、別段何も起きない。(というより、悪縁の側に近い立場に立っている。)

 もしこれで止められぬようなら、ここで初めて「念」の力、すなわち祈祷により相手を遠ざける手段に進むことになる。

 だが、その前の段階で幾らでも幽霊を鎮める機会がある。基本は「常に自省すること」だ。