◎「キムチ」と言う名の少女
１９８０、８１年にタイ南部の難民キャンプに行き、ボランティアとして数か月間働いた。まだ私が十代の頃だ。
キャンプでの主な仕事はトイレの汲み取りや、シャワールームを建てることや、物資の供給などの雑用だった。
キャンプは浜辺に区画を作り、バラック小屋を並べたようなところで、大体１万数千人くらいが一時滞在していた。
難民の９割以上がヴェトナム人で、残りがカンボジア人だったが、これは地理的な条件による。殆どがヴェトナムから船で出発し、沿岸諸国に辿り着いた人たちだった。
沿岸漁業で使う小舟に五十人から百五十人も乗って来るし、千キロ以上、海を渡って来るから、「半分以上は途中で沈んだ」のではないかと言われていた。
また漂流するのと変わらないから、海で過ごすうちに水や食料が足りなくなる。
私が難民キャンプに着いたその日に、沖で発見され曳航されて来た船が浜に着いたのだが、乗っていた人たちは全員亡くなっていた。五十人くらいの死体が辿り着いたのだ。
また、周辺国の貧しい漁民が海賊に変じ、そういう船を襲った。
金など金目の物を身に着けて来るから、「お宝がやってくる」みたいな感覚だったのだろう。大半が途中で海賊に襲われ、抵抗すると殺されたし、若い娘は強姦された。
岸に辿り着くまでに、複数回海賊に襲われるケースもよくあった。
難民キャンプは、受け入れ先の国の許可が下りるまで一時滞在するところで、短い者は三か月くらい、なかなか決まらぬ者は一年以上をそこで過ごした。
キャンプでは何もせず、ぶらぶらしているだけの毎日だが、そこに着くまでの生活が過酷だったから、皆が明るかった。
キャンプには子供たちも沢山いて、仕事の合間には、子どもたちとよく遊んだ。
たまにボランティアの先輩たちから、「遊んでばかりいないでくれ」と叱られるくらい仲良くなり、キャンプの家族の小屋に泊めて貰ったり、ご飯をご馳走になったりした。
子どもたちの中に、顔に大きな傷のある女の子がいた。年恰好は七歳か八歳だ。
おそらく戦争が原因で怪我をしたのだろうと思うが、そんなことは訊けない。
まだ記憶が新しいから、苦しみを伴う記憶を語らせるのは気の毒だからだ。
ある日、仕事を終えた帰り際に子どもたちと遊んでいると、その子が近付いて来た。
その子は私に近づいて、「あげる」と言って砂糖菓子を渡そうとした。
ヴェトナム語だから言葉が分からないが、たぶんそう言ったと思う。
ボランティアの立場上、難民に何かして貰うのは憚られる。見返りを期待されることがあるためだ。たまたまその時、私はお腹の調子が悪かったこともあり、「いいよ。食べられないから」とそのお菓子を返した。
しかし、帰る道々考えると、その子は顔の傷のこともあって、あまり子どもたちの中に入って遊んだりしない子だった。たぶん、入れて貰えなかったのだろう。
私に厚意を示すのは、「仲間にして」というサインではなかったのか。
そういう気持ちでは無いとしても、そもそも厚意を突き返すのは礼儀に反する。
「しまった。その場で食べてくればよかった」
そんな風に後悔した。
私がお菓子を置いて去ろうとした時の女の子の表情を覚えているが、その子は寂しそうに目を伏せていたのだった。
それから何十年もの月日が経ったが、時々、その子のことを夢に観る。
その子の心をいたく傷つけたのではないかという思いがあるためだ。
そして、思い出す度に自分自身を責める。
これが実に堪える。
他人の過ちを赦し忘れることは可能だが、自分の過ちのことはけして忘れぬためだ。
その子は今も夢に現れては、いつも寂しそうな目で私を見る。
しばらく前に、やはりその時の夢を観た。
「この調子では、俺が死んだ後、こういう心の負荷が原因で悪霊になってしまうかもしれん」
そんなことを考え、気が塞いでいるのが顔に出ていたらしい。家人が「どうしたの？」と訊いて来た。
「俺はあの子の心を傷つけたのではないかと思い、今も苦しんでいる」
すると、家人は文字通り「ケラケラと」笑った。
「そんなの全然気にすることないよ。お母さんに『上げなさい』と言われてお菓子を持って来たのでしょうから、トーサンが受け取らなかったら、その子が美味しく食べたんだから。逆にその子にとってはラッキーな話だよ」
これで少し救われた。ま、何十年も忘れなかったのだから、「さあっと心が晴れる」とは行かないが、いずれ少しずつ自分を責めずに済むようになるのではないか。
それから、かつての画像を眺め、しばし懐かしさに浸った。
さて前置きが長くなったが、ここからが本題だ。
冒頭の画像には「キムチ」という名の少女が写っている。私の左隣の少女がそうだが、珍しい名前だから、忘れることは無い。
その当時の私はまだ十代で、何も分からぬ少年同様だったから、つい思いついたことを口にした。
「どうしてキムチという名前なの？」
その時、その少女の周りには年配の女性たちがいたが、その中の一人が言葉を選んで答えた。
「この子の親がキムチを食べたら、それが美味しかったからこの名前にしたのよ」
ふうん。そんなこともあるのか。
話を聞いた時には、そう思っていた。そこはものを知らぬ少年だ。
だが、後になりさすがに気が付いた。
「寿司を食べて、それが気に入ったからと言って、『スシ』と名付ける親がいるかどうか」
「パスタ」とか「ハンバーガー」という名の人がいるかどうか。
もちろん、いない。
その子の名が「キムチ」である理由は「父親が名の分からぬ韓国兵だったから」だ。
韓国兵は国連軍の一員として、ヴェトナムに駐留した筈だが、実際には各地で一般人に暴行を働いた。
「ヴェトコン掃討」を名目に村々を襲い、実際にやっていたのは、略奪と婦女への暴行だ。罪が深いことに、彼らが襲ったのは、南の村々だ。要するに本来は「味方」のほうになる。
その難民キャンプには、最大時１万数千人のヴェトナム人が一時滞在していた。
私が知る限りの範囲では、その中に数十人の「キムチ」ちゃんがいたように記憶している。
国が出した軍隊が犯した犯罪は「戦争犯罪」になり、原則、時効は無い。
ヴェトナムにおける韓国兵による婦女暴行事件の証拠なら、幾らでも見つかる。
この行為に対する韓国政府の言い草にはあきれる。
「十分に謝罪した」
「もう時効だ」
「不誠実」の見本は、あの国にこそ存在する。
