日刊早坂ノボル新聞

日々のよしなしごとを記しています。

◎扉を叩く音(続)

扉を叩く音(続)

 「毎年、秋から冬にかけて、深夜、玄関の扉を叩く音が聞こえる」話の続きです。

 

 令和三年二月八日午前二時半の記録。

 居間で寝袋に包まり、スマホを見ながらこっくりこっくりしていた。

 すると、突然、「ダアン」と音を立て、居間の扉が開いた。

 扉は壁にがたんと当たり、反動で半分戻った。

 さすがに驚いて目を向けると、上半身だけの白い人影が外に出て行く。

 台所のカウンターの横から出て、廊下に向かったらしい。

 

 「半分は居眠りしていたから、夢を観たのか」

 そう思いかけたのだが、しかし、扉が開いたままだ。

 寒いから、開けたままでいることはない。

 

 この手の異変が起きなくなってから一年以上経つが、また復活するのかどうか。

 当家の後ろから台所のカウンターの横を抜けて、前の道に向かうのが、いわゆる「通り道」になっているようで、以前は人影が居間を通り過ぎるのを時々見た。

 家の中で撮影すると、よく煙玉が写る。

 一時、赤外線撮影しようかとも思ったのだが、まともに写ってしまうと、自宅だけに気色悪いから家では撮影しなくなった。

 

 自身の存在を知らしめるのは、すぐに「こちらが気付く」「気付いて貰える」と知っているからだ。

 現実に気付いてしまうのだが、寝かかっているところを起こされるので、さすがに迷惑だ。

 ま、こういうのは三月を過ぎれば、殆ど無くなる。

 

 こういう出来事は、気付かぬ人は気付かぬわけだし、そもそもそういう人の前にはあまり出ない。その人の心情(心持ち)に関係しており、何かしら接点が無いと、幽霊の側からその人が「見えない(検知出来ない)」ようだ。

 だが、つい見てしまう者には、どんどん仕掛けて来るようになる。

 

 こういう話は「亡くなったお祖父さんが助けてくれる」みたいな話と同じで、「話だけ」のものだ。他者への説得力がまるでないわけだが、当人にとっては「自身に起きた出来事」として記録しておく意味がある。

 病気や老衰による「妄想」と、現実に起きている「異変」を区別するものさしになり得るからだ。