◎肩の上の少女 (一年前の振り返り)
桜の時期から梅雨までは、「あの世」に関わる異変が起き難い季節になる。
このため、思わず手が止まるような画像は、月に1、2枚しか見付からない。
最初の画像は昨年の五月に撮影したものだ。
神殿の前で自分自身を撮影しようとしたが、前に二人連れがいた。
所要があったので、失礼して背後から撮影させて貰った。
だがファインダを覗くと、その段階で違和感を覚えた。
後で分かったが、視線(眼)のせいだった。
誰かが自分を見ていると、あるいは誰かに見られていると、何となくその気配を感じるものだが、そういう時の感触だ。
男性の肩の上には少女(女児)の頭が載っている。この位置にガラスの継ぎ目は無く、二重映りは起きない。男性の顔の輪郭は見えているから、別の頭だと分かる。
ただ、この時期は鮮明に写らぬから、詳細は分からない。
興味深いのは、周囲の状況に合わせて「姿を変える」ところで、この少女はマスクをしているように見える。皆がマスクをしている時には、人影もマスクをしていることが多い。
普通、誰でも周りに幾つかの「お供」を連れている。「取り憑いている」みたいな大仰な話ではなく、何かしら「近いもの」を持つ者が傍にいる。
娘や孫のことを想い続けていると、そのことで、父親を慕う「何か」が寄り付いたりするようだ。
私には常時、「女」がいるが、いつも娘たちのことを案じていることも関係していると思う。
少女のような人影は、「憎しみ」などの悪心に反応して寄り付く者ではないから、気にする必要はない。「まったく傍にいない人」はなく、存在を示すか示さぬかどうかの違いだけだ。
しかし、状況は少し違っていたようだ。
凡そ三週後の六月の初め、いつもと同じように写真を撮影すると、画面の片隅に人の姿が見えた。
この時期だし、遠目だしと、鮮明にならぬ条件が整っているので、困惑させられるが、人影の周囲に白い煙が出ているので、すぐに目に付く。
これくらいの遠景だと、画像の歪みが起き難いから、確証はない。あくまで、自分の経験での判断になる。
人影の中心は少女(女児)だ。
俯く少女は、背後からふたつの腕を回され、掴まえられているように見える。
後ろにいるのは、頭の周囲が判然とせぬが男のよう。これは腕の太さ等から類推するものだ。
こういう感じの構図の時には、背後にムカデ行列のように「人影が連なっている」ことが多い。ここではほんの少ししか見えていないが、やはり同じ体勢のよう。
改めて眺めると、中央の女児は、数週間前に撮影した男性の肩にいた少女と同じ者ではないかと思う。
改めて眺めると、少女は最初の男性に関わる者では無かったのかもしれぬ。
視線は私を見ていたから、単に助けを求めていたのではないのか。
ちなみに、これはよくある。心停止を経験した後は、先方から私のことが見えやすくなっているようで、声を掛けられることが時々ある。
ホテルの部屋で、あるいは人気のない公園で、山や林の中で、唐突に「助けて」と呼び掛けられる。
少女は独り「霧の中」にいて、ひたすら助けを求めていたのではないのか。
死の準備が出来ぬまま亡くなると、行き場を見失うことがある。多くは幽界の霧(闇)を彷徨う間に、他の強い存在に吸収されてしまう。
「死者の隊列」の一員になるわけだ。
こういう隊列(集団)は、数十、数百から数十万の群衆に至るまでの規模で存在しているようだが、生前と同じ苦痛を抱えたままであるから、次第に姿かたちを変え、「亡者」になって行く。
もし私のイメージが、単なる「想像や妄想」でなかったなら、少女は救えたと思う。
拾い上げて、自身の傍に置き、しかるべき時と場所で離してやればよい。
この六月の画像以後には、少女(女児)は姿を見せなくなった。
ちなみに、一年前の画像を振り返り、今回初めて発見したのは、最初の画像で「私の前に立つ女」だ。後ろ姿で、黒い頭しか出ていないので、それとは分かり難い。
後ろを向いているのは、すなわち、私のことを見ていたということだ。
これはいつものことなので、問題なし。
私はかつて死んだことがあるし、今も自身の死を目前に見ている。彼らにとって、近しき者ということだ。
死ぬことは「終わり」を意味するものではなく、ただの通過点であり卒業だ。
小学校を卒業したら、中学校が待っているわけだが、中学校を「怖ろしい存在」と見なしたり、あるいは逆に「存在しない」と言い張る者が大半だ(苦笑)。
「それは現実に存在しているし、新しい学校の規則に従えば、苦痛なく過ごせる」と見なせば、行き場を失うこともない。
難点は「知覚するのが難しい」ということだが、眼に見えぬものが「存在しない」訳ではない。空気は理念だけでなく現実に存在しており、扱いを間違えると生きてはいられない。
後段は例え話。