日刊早坂ノボル新聞

日々のよしなしごとを記しています。

◎また傍に来ている

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平成三十一年三月三十一日撮影

また傍に来ている

 真面目に「あの世」ウォッチングを始めたのは、「お迎えに会った」という実体験がきっかけだ。内容は幾度も書いて来たからここでは省略する。

 あの時の恐怖感たるや、ホラー映画や小説など「鼻で飛ばす」程度だ。

 だが、何事にもソコソコの対策は立てられる。

 死期が迫ると、幽霊がそれを悟り、どんどん周りに集まって来る。だから、実際のところは「お迎え」ではなく、「見物人」に近いのではないかと思う。あるいは、その中に本物が混じっているということだ。

 この場合、最も大切なのは、状況を的確に把握することだ。

 自身の周りにいるのかいないのか。そして目的は何なのか。

 

 自分に興味を持たぬ単なる「通行霊」なら、無視しても構わない。

 自分に近い感情を持ち、共感して近づいているなら、その感情の起伏を宥め、落ち着かせることで、自然と去って行く。

 怒りに任せ、誰彼なく祟りを振り撒く存在はごく少ないのだが、ゼロではない。こういう場合は懇切丁寧に慰めることで、多くは次第に鎮まって行く。

 

 今はぴったり傍に「女」が寄っているが、多少、物理的な異変を起こしているから、少しやっかいな存在だと思う。

 今の季節には、画像には写らない。どんなヤツかは姿を見れば想像がつくのだが、それが出来ない。その意味では、いつもと少しパターンが違うようだ。

 しくじると「持って行かれるかもしれん」という実感がある。

 

 たまに勘違いされるが、好奇心や探求心で「あの世」観察をしているものではない。相手がどういう者かは、対策を立てる助けにはなるが、深く知る必要はない。

 他者が理解できるように公に説明するつもりもない。そもそも見ているものが違うので、説明しても理解出来ない。

 もし理解できる人がいるとすれば、「回線の繋がっていない、電源だけ入った電話のベルが鳴る」みたいなことが現実に起きている人だけだと思う。

 (ちなみに、たった今、鳴った。「自分はここにいるよ」と伝えたいらしい。)

 

 あの世の住人は「自分に興味を持ち、共感する者」に対しより多く集まるから、つい見てしまうようになると、先方からどんどん踏み込んで来る。

 後戻りは出来ないから、よほど必要に迫られぬ限り、近寄らぬ方が無難だ。

 「女」はもはや手を伸ばせば届く距離まで来ているから、正直、来月まで無事でいるかは分からない。それと分かる身体的な兆候が見られぬところが、逆に不気味だ。

 でもま、これまでの経験と勘を信じるしかない。

 

追記1)今は肩に顔を乗せられた時の不快な感触が、即座にそれと分かるようになった。数年前より少し「成長した」と思うのは、自分だけでなく他の人の上に乗っている者も分かるようになったことだ。

 

 憑依されている人に対する助言の仕方も「あれこれと考えず、私の言う通りのことをしろ」と言うのがいいようだ。説明してもどうせ分からないし、この手の状況を殆どの人は認めたくないから、ただ否定するだけ。

 だが、聞く耳を持ち「とりあえずその通りにしてみようか」と思う人もいる。

 そういう者は助けられるし、助けても良いだろうと思う。

 

 この辺でアモンさまの考え方とは相容れなくなる。

 アモンは「この世に恐怖を振り撒いて、皆を従わせろ」と言っている。それにも一理はある。それが近道だ、とも。

 認める姿勢が無い者には、いくら話しても通じない。

 「眼を閉じ、耳を塞いている」者に何を語っても、何の意味もない。 

 見えないし、聞こえないのだから、当たり前だと思う。

 

 で、大半の人は「お迎え」に手を握られるまで、その存在を認めようとしない。

 死期は絶対ではないから、「お迎え」を遠ざける練習をして置けば、即座に連れ去られることもない。もちろん、「来た時のこと」を前提に、前々から対処の仕方を学ぶ必要がある。