日刊早坂ノボル新聞

日々のよしなしごとを記しています。

◎感謝すると痛みが消える

感謝すると痛みが消える

 コロナ貧乏のため、「息子に西瓜でも食べさせよう」と思っても、青果店の店頭で躊躇してしまう。

 今年の西瓜本来の味は、大玉を食べねば分からない。(この辺は何十年も西瓜を「売る」側だった。)

 だが、大玉の出来の良いのは三千円はする。

 当方は西瓜が禁忌食品なので、今、家族で食べられるのは家人と息子だけ。絶対に食べ残す。

 小玉でも、切ってあるヤツでもダメなので、結局、そのまま帰ることになる。

 

 帰宅し、家人に「西瓜すら躊躇うような貧乏になってしまった」とこぼすと、家人が笑う。

 「貧乏でも、幸せにはなれるよ。幸せなど幾らでも転がっているから、それを見付ければいいだけなんだよ」

 思わず、「お前の言う通りだ」と頭を下げた。

 家人には言いたくないが、コイツはどんな時も笑っている。

 ダンナが「本を出すから、ウン百万貸してくれ」と言っても、笑って貯金を差し出す。

 ダンナの方は返すどころか、女房がコツコツ貯めた貯金を、また「次の本」のために引き出させる。

 それでも、家人は「別に大丈夫」と笑っている。

 ダンナが打ちのめされる瞬間だ。

 

 だが、さすがにダンナも「人の子」で、「コイツから離婚されることがあっても、俺が離婚してくれと言い出すことはない」と思う。

 ノロけているのではなく、ただの実感だ。

 当方は、正直、偏屈で我儘だ。「飲む・打つ・買う」で通して来たが、誰がそんなダンナを大切にするのか。

 「俺なら即座に離婚だ」と思う。

 だが、家人はいつも笑っている。

 それを見ると、いつも「コイツには敵わない」と思う。

 

 そこで、たまに「俺の女房でいられるのは、たぶん、コイツしかいない。感謝しなくちゃな」と心底から思う。

 面白いことに、「心の底から感謝する」と、あちこちの痛みが消えてしまう。

 

 たぶん、何かの快感物質(ドーパミン)みたいなのが脳から出るのだと思う。

 信仰によって、苦痛が瞬時に治ったりするが、それはこういうことだ。

 

 「たとえ貧乏でも、幸せにはなれる」は金言だと思う。

 もちろん、家人本人には絶対に直接言わぬし、家人も細かい日本語は読めない。

 だが、外でどんな悪さをしても、必ず家には帰ろうと思う。

 (受け入れてくれるかが問題だが、もはや障害者だし、大したことは出来なくなった。)

 

 「感謝の気持ちによって痛みが消える」はダンナの方の説だ。

 洗練させれば、きっと宗教団体が作れる(笑)。