日刊早坂ノボル新聞

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◎不慮の死を迎えた人へのご供養

不慮の死を迎えた人へのご供養

 事故や事件が原因で亡くなると、本人は「自分はもう死ぬ」という心の準備がまるで出来ていないので、残念な話だが、すんなり「成仏」出来ない。

 この場合、「成仏」は仏教用語だが、要は「自我を解体し、過去から解放される」という意味だ。

 多くの場合、死後しばらくの間は、暗闇の中に留まり、意識がない状態のようだ。

 これは概ね十数年で、残された者の悲しみや記憶が薄れて来た頃に、当人の自我が目覚める。

 不都合なことに、亡くなった当人は「自分が死んだことが分からない」ことがほとんどだし、前頭葉(脳)を失っているから、理屈で考えることが出来なくなっている。

 「夢の中」もしくは、それが覚醒する直前の「ぼんやりした状態」でいる。このため、ただぼーっと立っているか、あてもなくうろつき回る。

 認知症になると、「自分がどこにいるのか」「帰る家はどこなのか」、はたまた「自分が誰なのか」が分からなくなるが、死後の目覚めの時には、これがさらに薄ぼんやりとした状態になる。

 

 ご供養が必要になるのはこの時だ。家族や親しい知人など、「かつて聞いたことのある声」で呼びかけ、薄れている記憶を思い出させる必要がある。そして、既に亡くなっていることを伝えることが重要だ。「十三周忌」が重要視されるのはそのためもあり、この頃には聞く耳が戻っている場合がある。

 だが、その頃には、親兄弟が亡くなっていたりと、丁寧にご供養されない環境になっていたりする。

 

 かなり前に、東京のあるところで、女性が殺される事件があった。

 女性には夫がいたが、別に愛人がいて、夫が仕事に出ている時に、その部屋に愛人を引き入れて情事をしていた。

 愛人に「夫とは離婚し、あなたと再婚する」と伝え、八百万くらいのお金を愛人から引っ張ったが、実際には本気ではなかったらしい。

 それが愛人にばれ、激高した愛人が女性の首を絞めて殺した。

 可哀想なことに、女性には小さい子ども二人がいて、母親が殺された時には、子どもたちは別の部屋にいた。

 事件後、家族は引っ越し、そのアパートも取り壊された。古びていたし、事故物件になったから、家主が売ったということだ。

 その後、十年以上経ち、そこには新しいマンションが建てられた。

 異変が起きたのは、十三年目くらいからになる。

 雨の日にそのマンションを通り掛かると、エントランスの隅の生垣のところに女が立っている姿が目撃されるようになった。

 「女」はただ黙って立っているだけ。

 外の道路からはフェンスに遮られ、頭の一部しか見えないが、玄関から中に入る時に、右側の隅にちらっと人影が見える。

 住人が「あれ?」と目を向けると、その時には誰もいない。

 悪さをしないので「怪談」や「都市伝説」にはならずに済んでいるが、「女」はずっとそのまま立っているようだ。

 

 以上はすべて憶測だ。

 私は何年か前に「かつて自分が住んでいたことのある寮(曰く付き)」を探しに行ったことがあるのだが、その途中で、この建物の前を通った。

 普通の人なら、見えても頭の先だけだろうが、私の場合は「先方から見られてしまう」という私なりの状況がある。(かつて数分間死んだことがあるせいなのか、あちらからも私が見えるらしい。)

 門の前を通る時に、つい視線を向けてしまったのだが、「女」が顔を上げて、こっちを見ていた。

 あの生気のない表情は、瞬時に「到底生きた人間ではない」と分かるほどだ。おかげで今も時々、夢に出て来る。

 

 そこで事件があったのは、念のため、後で検索して分かったことだ。もちろん、正確な住所を照合したわけではなく、「その付近で」が分かったところで調べるのを止めた。

 こういうのは、「もう死んでいるのだから、それを受け入れたほうがいいよ」と声に出して呼び掛けるのだが、それを幾度か続けた後には出なくなる。 

 

 幽霊はホラー映画みたいに、怨念だとか恨みだとかが「顔に出ている」ことは稀で、大半が無表情だ。

 加えて、血の通った温かみがまったく無いところが薄ら寒い。

 「家族」が大切なのは、生きている時ばかりではなく死んでからも同じだ。というより、むしろ、死を穏やかに受け入れるには、長期に渡りきちんとご供養してくれる存在が必要不可欠だ。