◎病棟日誌 悲喜交々4/6 「我がことのように喜ぶ」
数日前に歯が一本無くなった。
目覚めてみると、一本足りなくなっている。口の中に破片が残っていたので、寝ている間に粉砕されたらしい。
まったく傷んでいない歯だったが、きれいに根元だけ残っていた。痛みも全くないところを見ると、神経が死んでいて、機能崩壊したらしい。顔の神経が切れると、形状を保てずに全体が垂れ下がるが、それと同じ。
根元の神経がむき出しになるとかなり痛む筈だが、まったく痛みが無い。破片を点検すると、やはり虫が食った痕が無くきれいな欠片だ。
カルシウム不足のケースもアリだが、それなら痛みがあるだろうと思う。
「やっぱり俺は既に死んでいて当然の身なのだな」
ゾンビと同じ状態だわ。
これなら、「ある日突然、大腿骨が粉砕骨折する」なんてことも起きそうだ。
治療が終わり、食堂に行くと、「お茶屋のオバサン」がいた。
「お元気でしたか?」と声を掛ける。
ひと月病棟から消えていたわけは、「入院病棟にいた」ことしかないわけなので、「お元気」も何もないわけだが、これ以外に声を掛けようがない。
すると、「またこれから頑張ります」との返事だ。
やっぱり入院病棟にいたわけだ。
よく戻って来られたなあ。
大体、この病棟には六十人くらいの患者がいるが、半数はその年のうちにいなくなる。
車椅子に乗るようになったら、ま、数か月から長くて半年だ。
腎不全患者は日本に三十万人くらいいるのだが、大半がフロー勘定で、古い患者がどんどんいなくなり、新しい患者が入って来る。その水準線が三十万人だ。
入れ替わりが激しいので、人の名前などは一切覚えぬようになっている。覚えたところですぐにいなくなるからだ。
この「お茶屋のオバサン」の名前も知らぬが、時々、「食が細い時の工夫」の話をしていた。
「死んだだろうな」と思っていたので、他人事なのだが、すごく嬉しい。「我がことのように喜ぶ」と言う表現があるが、それはこういうことで、涙が出そうになるくらい嬉しい。
「ここではひとの生き死になど特別なことではなく、誰かが死んでも心がまったく動かぬのに」と不審に思ったが、それは私自身の気の持ちようが変わったからだと気が付いた。
この一月から総てが変わった。
言葉に出すことはないが、他人を眺める時に、私が最初に考えるのは「この人の長所は何か?」ということだ。
良いところがあれば学ぼう。
この「お茶屋のオバサン」から学ぶべきは、「どんな状況でもニコニコしている」ところだ。具合が悪いから食が細くなっていたわけだが、とにかく明るい表情をしている。
私とは真逆だ。
私は割と本心をあっさり口にする。
「まいった」「俺は終わった」と言ってしまうことで、現状を認識する。
もちろん、それで終わりにはならずに、そこから起き上がることを考える。
「やっぱ、現状、俺はゾンビだな」と痛感した。
出来れば、「お茶屋のオバサン」のようにありたいものだが、そんな良い性格じゃねえし。
さんざ打たれて来た人間が物分かりが良くてどうする?
年寄りの嫌なところは、「とかく説教をし、自慢話をする」ことが典型だが、では年寄りが自慢話をし、説教をしないで、一体誰が物を知らぬ若者とかメディア人を統制するのか。
皆に「好かれよう」なんて思う人間ほど嫌味なものはない。
「真善美」を語る者ほど胡散臭い者はいないわけで。
何事にもアンチテーゼは絶対必要だと思う。
さらに起き上がって、人生と戦い始めるには時間を都合する必要がある。現状、生活時間の半分以上が生き残ることだけに費やされている。
とりあえずSNSを添削して、日にあと一時間作る必要がありそうだ。