日刊早坂ノボル新聞

日々のよしなしごとを記しています。

がんばれ! 小保方さん   (その2)

◇科学論文の基本は何か
 科学的思考法の基本は、発見と検証である。分かりやすく言うと、「これまでに知られていなかった知見や技術を発見する」が発見の手法であり、「ある法則性が、常に起こるかどうかを確かめる」のが検証の手法である。
 言うまでもなく、新技術の発見には、確からしさを検証するステップが重要であり、もしそれが恒久的に起こるような規則性を有しているなら、定理や公理とみなされる。
 ただし、当初から定理として確立されていなければならないわけではなく、発見と検証のいずれかの要素が満たされていれば、十分に論文としては意味がある。
 「発見」手法に限定すれば、100ケースのうち3ケース程度が成功していれば、論文としては問題ない。ある環境条件下で起きることが確かであれば良いのである。
 もちろん、如何なる限定的条件を付加しようと、「可能性がゼロ」という場合は、明らかに論文(=規則性に関する記述)ではなく空想や妄想となる。
 しかし、可能性を1~3%程度残しているのであれば、問題とするに当たらない。
 他の研究者がSTAP細胞をつい検証できないのは、その人たちの能力が劣っていたり、発見者(小保方さん他)が特別なノウハウを持っている場合もある。
 このため、先に公表した論文を「取り消す」必要は全くない。
 発見者が重ねて追検証を行い、「確からしさ」の精度を高めて行けば良いだけの話である。

◇「仕掛け」の拙さ
 では、なぜ今のような具合に、発見者とその所属組織の間で、田舎歌舞伎みたいなやり取りが起こってしまったのか。
 これは単に、仕掛けの拙さによる。
 やや口が悪い表現をすれば、「さすが理工系の研究者は仕掛けがヘタクソ」だというのが率直な感想である。この場合、「仕掛けの下手な研究者」とは、小保方さんではなく、理研の上層部のことを指す(念のため)。
 小保方さんは、学位を取り立てで、職業研究歴がわずか数年に過ぎない「駆け出し」の研究者である。早大大学院を修了した後、ハーバード大かどこかで「箔を付けて来た」かたちにはなっているが、研究者が「どこを出たか」はあまり関係がない。
 「どこを出たか」が意味を持つのは就職のときだけで、「何を研究したか」のほうが重要である。
 まだ30歳の経験の乏しい若手研究者が、なぜ研究チームの代表になれたのか。
 その答は「なれた」のではなく、「した」から。
 「もしかすると若返りが可能になるかも」というセンセーショナルな言葉を吐くには、中高年のオヤジでは説得力が落ちる。
 若くて小奇麗な女性研究者を前面に出せば、「きっと受ける」という思惑がそこには露骨に見える。ある意味、小保方さんは「熨斗袋」または包装紙として利用されていたのだ。
 これが傍から見ても見える。
 すなわち、仕掛け自体がよく練られておらず拙いのである。

◇組織なるものの本質
 さて、研究者ではない一般人の眼から見ても、今回の理研の姿勢に疑問を感じた人が多いのではないか。
 理研は「理研を中心とする研究チームが世界的発見をした」と打ち上げたはずだが、いざ不首尾が見つかると、明らかに「小保方さんという研究者個人」にその責を押し付けようとしている。
 STAP細胞に関わる報告は、理研の研究チームが行ったもの。その代表者が小保方さんだったかもしれないが、研究の成果は、理研と共同研究者、小保方さんとで案分されることになる。
 これは権利も義務も同じである。
 理研は「研究にねつ造や改ざんがあった」と断罪したが、これではまるで「小保方さんに騙された」と言わんばかりの態度である(まるで被害者面!)。
 これでは明らかに筋が違う。もし研究成果に不首尾があれば、仮に「ねつ造や改ざん」を行ったのは、あくまで理研という組織である。
 小保方さんはその組織の1研究者に過ぎないのだ。(しかも若手で、経験不足の女性だ。)
 これでは「トカゲのしっぽ切り」と見られても致し方ない。

 大体、「共同研究者」のメンバーには、キャリア十分のオヤジが沢山いる。未熟な若手研究者の不始末を見抜けないのは、要するに「監督者の眼が節穴だから」ということであろう。

◆研究者の「ケツの穴」
 一連のやり取りを見ていて感じることは、やはり研究者は世慣れておらず、人間(じんかん)を処するのがヘタクソだということである。
 理研に関して言えば 誰か管理職の1人が、「方法に不首尾はあったが、研究としては重要だし、面白い。よって、このまま研究を継続させる」と断言すれば、多くの人はある程度納得した(現時点では、だが)。
 現段階では、あくまで論文の1つであるから、不首尾があれば手法の精度を高めてやり直せばそれでよいのだ。
 それが、いざ問題が起きると、一斉に小保方さんの傍らから離れようとする。
 これはいかにも見苦しい。
 共同研究者としての立場なら、米国の某教授のように擁護する側に回って然るべきだろう。

 小保方さんのほうも、弁護士を並べ立てて抗弁しようとしたのは拙かった。
 今は組織内部の話なので、間に弁護士を入れると言うことは、「直接には話ができない」という事態を意味し、「縁を切る」ことに繋がる行為である。夫婦の間に弁護士を入る事態は、要するに「いずれ離婚する」ということで、それと同じである。
 「沈黙は金」で、「今は私だけ作れる」とのみ言っておけば、いずれ研究機会を与えてくれる機関は山ほどある。