「お百度」にも徐々に慣れてきて、我ながら行動がきびきびしてきた実感があります。
茅の輪の前で止まっている人たちを横目に、流れるように境内へ入ります。
看板を読みながら「どうすんの?」と戸惑っていた人たちは、私のしぐさをじっと見ていました。
確かに、読むより見る方が分かりよいです。
郷里の岩手では、姫神山という山が古くからの霊場(修験道)の1つで、実際に、昭和40年代まではごく頻繁に山伏を見掛けました。
夏の夜に眠れず、窓を開けると、山伏が登山口の方に曲がって行くところだった、てなことも幾度かあります。ちなみに、これは深夜の2時ごろの話です。
「あれは本物の人か、幽霊なのか、どっちだろ?」と考えたことが記憶に残っています。
ところで、父に聞いた話では、父の知人にその姫神山への「お千度参り」を志した人がいたとのことです。
標高は1千何百辰らいのさほど険しい山ではありませんが、頂上に上るには数時間掛かります。
下りはおそらく数十分でしょうが、その登り下りを百回どころか1千回続けるとなると、かなりの根性が要ります。
その人は、1千回の山頂詣でをするのに、20年近くを費やしたと聞きます。
慣れてきたら、カモシカなみの速度で上がれるようになり、終わりごろには、1日に2度お参りをしたそうな。まず朝に登って来て、仕事に出て、帰りにまた登って来る、という具合です。
この時点で「本当かよ!」という話ですが、その話はそれで終わりではありません。
あろうことか、その某氏は、1千回を終えてみた時点で、「何か物足りない思いがした」ので、新たにもう1千回の山頂参りを実行したそうです。
最初のが20年くらいで、2回目が10年かかったかかからないか。
正確な年数は忘れましたが、1年に百回を超える割合だったことを記憶しています。
(父にこの話を聞いた時に、頭の中で計算しました。)
「それに比べれば、平地のお百度参りなんて、どおってことないさ。ましてや、車で移動してるんだし」
そう思うのですが、時間を作って出掛けて来るのは、案外大変です。
先はまだまだ長いのですが、マラソンと違い、期限が無いのでそこは助かります。
行ける時に行けば良いわけです。
画像は、次第に七夕飾りが増えてきた境内の様子です。
榊のご神木で祈祷した折に、下を見たら小銭が落ちていました。
撒き銭をするのは私だけではないのですね。
まあ、木の根元なら、誤って子どもに拾われてしまうことはないでしょう。
子らが厄を持ち帰ったら可哀そうです。
岩手の脇話が入ったので、どちらの話か分かりにくくなりましたが、埼玉の方の話題ですよ。