日刊早坂ノボル新聞

日々のよしなしごとを記しています。

(日高) 参拝120日目で考えたこと

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体調がかなり悪く、横になっていると、隣の部屋から声が聞こえました。
既に家の中には誰もいないので、妄想ではないか。
なんたって、動けないくらい体が重いし。

「やり残したことは、次にやり遂げれば良いんだよ」

何だって?
ちなみに「頭の中で響く」といった、なまやさしいものではなく、「ラジオが音量高く鳴っている」くらいのはっきりした声です。
大体、聞こえたのは女の声です。自身の思考なら、普通は同性(男)ですね。

霊感や第六感は「妄想」の延長線上にあります。
この手の感覚の9分9厘は単なる妄想なのですが、たまに説明のつかない次元に達することがあります。
なにせ、複数の人が同席している時に、同じ声を聞いたりします。
そうなると、もはや妄想の範疇からは外れます。
誰もいない筈の部屋から、はっきりと声が聞こえる、なんてことも現実に起きますね。
もちろん、滅多には起きません。宝くじよりは頻繁に起きるが、確率論的には「起きない」の領域です。

今日は家に1人きり。
そうなると、まあ、妄想だろうし、そう思いたい。
言葉の前後の意味を考えると、塩梅はかなり悪いです。
「今回はやり残すけれど」を前に付けると、すっかり意味が通ります。
すなわち、「今生はもう終わりだけど」というフレーズです。

こりゃ不味い。
「体調が悪いので、それに応じた悪いことを考えた」ってことなら良いのですが、これがいわゆる「お知らせ」だったりしたなら・・・。
がばっと跳ね起きて、服を着ました。
「参拝に行っとこう」
横になったまま、良くないことを考え続けるより、起きてはっきりさせる方がましです。

「もうじきお陀仏なら、トラちゃんにお別れを言っとこう」
すぐに車に乗り、出掛けました。
高麗神社までは15分から20分です。
平日ですので、あまり参拝客はいません。
しかし、大型犬を連れた客が居ました。
「このやろ。ここは公園じゃないぞ。動物を連れて来るな」
犬が居ると、トラちゃんは隠れてしまいます。

祈願を終え、境内の長椅子に少しく座りました。
そこで先ほどの声について、再び考えます。
「今生は終わりだが、次は」なら、もしかすると、次の人生でも今生の記憶をよみがえらせることが出来るのかも知れません。
完全にゼロからのやり直しなら、おそらく今回の経験を生かすことは出来ません。
そうなると・・・。
「まずは、きちんとあの世に行って、また生まれて来る機会を得るということだ」
なるほど。

それなら、時々、湧き上がってくる「怒り」をなだめないと。
あと残りはわずかだってことを知っているので、ふとしたことで怒りが止まらなくなることがあります。
乱暴な運転とかに遭遇すると、相手の運転手を「殺そう」と思ったりしますね。
声ひとつ上げずに、いきなりです。
おそらく、他の人と繋がっておらず、「もはや命が無い」と思っているので、キレやすい状況にあるのでしょう。
そうなると、あの声は「今生は終わりでも、それで総てが終わるわけではない」と言っているのかもしれません。
魂に終わりはなく、次があるんだぞ。
ううむ。

帰路、鳥居を出ると、既に犬が去ったらしく、トラちゃんが出ていました。
しばらく来なかったせいか、何となくよそよそしい態度です。
自分の家でも食事を与えられているでしょうから、太らないように、おやつ程度の量に留めつつ、キャットフードを出しました。
食べ終わると、トラちゃんは「まだ仕事中なの」と言わんばかりに、鳥居の前に居場所を移しました。

「もしかすると、そのうち来られなくなるかもよ。元気で暮らすんだぞ」
これを声に出して言いました。
「猫ちゃん」への言い方でなく、人に対する会話のように話をしたので、通り掛かった人が「あれ?」という目で見ていました。

病気をする前には、「1日のうちに8つのことを成し遂げよう」と考えていました。
それが5つになり3つになり、最近では1つ出来るかどうかというところまで下がってます。
こうなると、自分の精神状態を健全に維持するのはかなり難しくなって来ます。

なるべくなら、「ただの妄想だよ。バッカじゃないの」と思えるような、「幸せな薄らボケ」で暮らしたいものです。

追記)
幾人か亡くなった知人がいますが、最期には「死神が来る」という妄想を見て、お皿や灰皿などを投げつけていました。そうなると、生命力が落ちた時に妄想が現れるということです。
本人にとっては、妄想ではなく現実なので、声や影でなく「疑いようもなくそこに立っている」のだろうと思われます。
死のサインということであれば、いずれにせよ怖ろしい話です。