◎8月11日の画像検証
毎夜、2時頃になると、「目を覚ませ。気を抜くな」と言う声が響き、パッと目が覚める。
昼夜とも2時から4時の間が幽霊が活躍する時間帯のようだが、眠っていると思考力を失ってしまうから、「今は危機を避けるために目覚めていろ」という意味らしい。
すっかり目が覚めたので、11日の画像を検証することにした。
実際の配置を比較すると、背景は鳥居の内側にある手水場の近くであることが分かった。
その近くに人影が多数写っているわけだが、サイズや位置関係などから見て、「そこにいた人たち」の可能性は低い。
唯一、白シャツの男性のみ、現実の人だった可能性がまだ残っているが、神社の境内で「左右の手を交差させて顔を隠している」という理不尽さがある。
私が最も着目していたのは「老夫婦」のことだ。
この夫婦は、この画像と同じように、時々、画像の片隅に現れる。
夫の腕の長さが異常なので、即座に「生きている人間ではない」ことが分かる。
では、何故に姿を現すのか。
幽霊が姿を見せる理由は、多く「助けて欲しい」からだ。
もはや死んでいるのだが、死ぬと同時に脳を失い思考力がほとんどゼロになる。このため、自らが死んだことを理解できず、生前の習慣をひたすら繰り返している者が多い。
果てしなく長い間、今の状況から逃れようともがく。
だが、周囲は深い霧の中で、漆黒の闇だ。
たまにひとの気配を感じ、そっちに近付こうとするのだが、それで実体化し、ひとの姿になる。
しかし、生きている人間にとっては、幽霊たちは「可視域の境界にまたがって」存在しているので、ほとんど見ることは出来ない。
一部の者(生者)は、カメラと同じように、通常の可視域よりほんの少し外まで見られる。
私もその仲間だが、日頃より、説明の出来ない光の筋や玉を目視することがある。
そういう感覚は別の効果をも生むようで、写真を撮ると、十枚に1枚はいわゆる「心霊写真」になってしまう。
幽霊の側から見ると、ひとの気配を感じることはあっても、相手が自分を察知してくれないのでは、何の意味も無い。
そこで、幽霊が最初に確かめるのは、「コイツは自分のことが見えるのか」ということだ。
このため、画像に残る幽霊の大半は、撮影者の目に注意を集中している。
もし相手が「見えている」ことが分かると、自分を助けてくれる可能性があるから、すぐさま近付き、「助けて」と叫ぶ。
しかし、その状態は「溺れているひと」と同じ。こういう幽霊はただ助かりたい一心で、相手にしがみつく。
その結果、両方とも溺れてしまう。
その者(幽霊)によって期間は違うのだろうが、心が鎮まれば騒がなくなる。
無闇に生きている者にしがみつかず、少し離れたところで、さりげなく自分の存在を示すようになるようだ。
そこまで来ると、概ね「生前の執着心を解き放つ」準備は出来ている。
この夫婦は、もはやその段階まで来ており、そろそろ自我を解放することが出来るだろうと思う。
あとは適切な「お導き」だが、直接的、具体的な方法は分からない。
とりあえず、近くに引き寄せて充分に慰め、霊気の流れに乗せてやるくらいのことしか出来ない。
闇雲にお経や祝詞を唱えたところで、本人がそれを理解したり、共感していなければ、何の意味もない。あの世には「魔法の言葉」や「破魔の呪文」など無い。
基本は「対話」で、きちんと敬意を払い、声に出して語り掛けることが必要だ。
霊猫のトラが導いてくれれば一発で完了するが、現実問題として、あてには出来ない。
存在そのものが妄想の産物かも知れんからだ。
試行錯誤を繰り返しつつ、まずはこの夫婦を救済する手立てを見つけようと思う。
今生もあとわずか。死後に悪霊に変じないように、自分なりに善行を施そうと思うが、「拾える魂を掬い上げる」というやり方が私には似つかわしい。
妄想だけではなく、本当の意味で「霊の声を聞き、姿が見られる」者は少ない。それなら、見える者が手を差し伸べるのが筋だろう。
もちろん、こういうのは「能力」などではない。「少し可視域・可聴域が広いのと、妄想癖だ」というに過ぎない。
いずれにせよ、これからは、可能な限り「お導き」の手伝いをしてゆくが、助ける対象は死者ということになる。
追記)老夫婦が分かりやすいのは、「空中にいる」からだ。
この画像が目に留まったのは、この夫婦に見覚えがあるのと、アリエネー場所にいることからだった。