◎ある男の話
男は四十台で妻子持ち。仮に名をSとする。
Sは大学のサークル仲間で、「厄祓い」の会を催した。
そこに現れたのが、Sが学生時代に付き合っていたことがあるTだ。
Tはダンナと死別して、今は独身。
話をしてみると、元は恋人だっただけに、気が合う。
すぐに2人で飲みに行くようになる。
Sの妻は神主の娘だ。
神職の家で育ったせいか、妻は普通の女より勘が鋭い。
「もしあなたが浮気すると、私にはすぐ分かる」
いつもそう言われている。
年齢的に、子どもは概ね中学生で手が掛からない。
子どもの話でも、SはTと話が合った。
見ず知らずの40台同士なら、互いにオジサン・オバサンにしか見えないが、かつて時間を共有した関係は違う。
「かつての記憶」が年齢で失われたものを補ってくれる。
ひと月後に、SはTとドライブに行くことになった。
距離的には、日帰りが出来ない場所だ。
口には出さないが、Sはホテルを予約している。
口で言わなくとも、暗黙の了解ってやつだ。
電話したり、メールを交わしたりすると、証拠が出来る。
声に出さずとも、相手の意図は分かる。そこは十分に大人になっている。
ドライブ先は海の近くだ。
海岸通りは道が少なく、分かりよい。
しかし、Sは念のためカーナビを点けた。
半日の間、観光をして、2人は宿泊地に向かおうとする。
来た道を途中まで戻り、別の方向に曲がると、そのしばらく先にホテルがある筈だ。
間違える筈がない。
Sは前にも来ているから、道を知っていた。
ところが、海岸通りの分岐点の手前で、カーナビが別の方向を示す。
まったくの逆方向だ。
「ありゃ。そんな筈はない。左に行ったら、また海岸に戻る」
まあ、言われた通りに行ってみっか。
しかし、やはり逆方向で、散々遠回りして、また元の分岐点に戻った。
あの、右に行くべきところを、カーナビが「左」と示した場所だ。
すると、カーナビは再び「左」と言った。
「これじゃあ、ぐるぐると同じ場所を回るだけだ。右に行こう」
そう言って、Sは右に曲がった。
案の定、そっちがここに来た時の道だった。
ここで、Sは何だか嫌な予感がした。
夕方、予約していたホテルに着いた。
黙って部屋に入る。
部屋に入ると、早速、男女でするべきことをした。
あれから20年近く経っているが、やはり「勝手知ったる仲」だ。道筋は前からついている。
はっきりした異変が起きたのはその夜だ。
夕食を食べた後、再びするべきことをして、横になる。
疲れたので、2人は少し眠ってしまう。
Sは夜中に目覚め、トイレに行こうとする。
すると、浴室のドアが開かない。
「鍵が掛かってるのか」
ああ、Tが入っているのか、とSは思う。
ところが、ベッドに目を遣ると、Tはぐっすり眠っていた。
「じゃあ、なんで開かないんだよ」
ドアは内鍵で、中側からしか掛けることが出来ない。
切羽詰っているので、ドアノブをガチャガチャやると、何とかドアが開く。
小便をした後、ドアを確かめるが、そもそもそのドアに鍵は付いていなかった。
「おかしいな。何で開かなかったんだろ」
疑いを抱くが、疲れたのと眠いのでベッドに横になる。
深夜の2時頃。SはTにゆすり起こされる。
「ねえ。トイレのドアが開かないけど」
「え。また?」
トイレに行き、ドアノブを確かめる。
本当の異変はこの時に起こった。
Sがノブを引こうとすると、Sは「内側から誰かがドアノブを押さえ付けている」気がした。
「うえ。気持ち悪い」
慌てて、ノブから手を離す。
この時、Sの頭には、妻の言葉が甦っていた。
「浮気したら、私にはすぐに分かる。生霊を飛ばすからね」
うへへ。まさかこれって。
「ここの廊下の端にトイレがある。ひとまずそっちで用を足せば?」
SはTにそう伝える。
この時には、Sの頭は不安で一杯だ。
しかし、もう一度、Tがドアを触ると、今度はすんなりと開く。
「さっきのは一体何だったの?」
Sの手には、あの時の力加減が残り、どうにも気色が悪い。
次の日は早々にTを自宅まで送り、Sは家に帰る。
家の玄関の前に立ち、鍵を開け、中に入ろうとする。
ガチャっと音がして、解錠される。
ドアを開こうとするが、玄関のドアは押しても引いても動かない。
まるで、誰かが扉を押さえ付けているようだった。
Sはインタフォンで家族を呼び、娘に中からドアを開けて貰う。
もう一度、扉を開閉してみると、今度は問題なく開く。
この話は、Sが実際に体験したことだ。
これを聞いた人の反応は2通り。
「カーナビは誤作動。ドアの鍵は古くなっており、引っ掛かった。それがたまたま2回続けて起きた。よって偶然の産物」
「ひとつ1つは起きることがあるが、こういうように続けては起きない。何らかの意思が働いている」
S自身は後者だ。なぜなら、ノブを触った時の誰かの手の感触が、とてつもなくリアリティを持っていたからだ。
見る者によって、ひとつの出来事はそれぞれ違って見えます。
ただし、人が最終的に信じるのは、自分自身(当事者として)の感覚なのだろうと思います。