日刊早坂ノボル新聞

日々のよしなしごとを記しています。

◎母が去る

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◎母が去る
初盆を迎えるために、9日から19日まで郷里に滞在しました。
9日当日の夜に気がついたのですが、深夜、実家の父母の棟のトイレに行くと、照明が点いていました。
そのトイレは、動作反応式のトイレで、中にいる人の動きが無くなると、1分ほどで灯りが消えてしまいます。
普段の習慣から、夜は起きています。
2時3時とトイレに行きましたが、やはり点いていました。
この手の照明は、故障で「点かない」ことはあっても、感知せずに「点く」ことはありません。

「そう言えば、この時間にはお袋がトイレに行っていたな」
もしかして母かも。

そう言えば、母が亡くなり、遺体を家に運んで安置した次の日に、トイレの扉が開かなくなったことがあります。
実家ではトイレに入るときに鍵をかけるのは、母しかいません。

そう思うと、確信に近くなります。
でも、もし母がそこにいるのなら、入ってもいいのだろうか。
妻の父は霊感の立った人で、子ども等が公園のベンチに座ろうとすると、厳しく制止したことがあったと聞きます。
「今、そこに座ったら駄目だよ。お婆さんが休んでいるから」
他の者には、その「お婆さん」はまったく見えなかったのです。

そこで、ひと声掛けてから入ることにしました。
「お袋。今からトイレを使わせてもらうからね」

朝になると、トイレの灯りは普通に働きます。
自然に消えますので、点けっ放しにしているのですが、点いていたことはありません。
深夜だけ、灯りが点いたままになったのです。

しかし、その灯りも、数日で点かなくなりました。
お盆が来て、通常は、故人が家に帰る頃合なのですが、母の気配が消えたのです。
家のどこかで、コトコトと人が動く気配も無くなりました。

後で知ったのですが、母への追悼文が12日から新聞に掲載されていたということです。
四十九日の夜に一気に書き、編集に送っていたのですが、そのままになっていました。
郷里の実家では、既に新聞を読む者がいなくなりましたので、届きません。

もしかして、母はこの追悼文を目にして安心し、あの世に旅立ったのかもしれません。
親戚の女性に聞いたところでは、「無くなってから半年、一年と様々だが、この世に留まって家族のそばにいることがある」とのことです。
その家では息子さんを亡くしているのですが、1年の間、家の中で時折、足音が聞こえたとのことです。

ひとまず、母は去ったのではないかと思います。
再生のためには、現世や幽界に留まることなく、霊界に入る必要がありますので、よいことなのですが、それは二回目の別れが来たことを意味します。
日々、「もはや母はいない」ことを思い知らされ、寂寞の念にかられます。

追悼文は5回くらい掲載されていると思います。
地元の方は今一度目を通して戴けると、ご供養になりますので、よろしくお願いします。

程なく「鬼灯の城」も再開となります。
地域性の高い新聞ですので、岩手県の方は購読をよろしくお願いします。