日刊早坂ノボル新聞

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◎『死の国』ノート(続) 霊は恐ろしいものではない

◎『死の国』ノート(続) 霊は恐ろしいものではない
 霊が幽界に留まる理由は、何かへの拘り、執着心から、自我を解放出来ないことによります。
 生きている人間で、その状態にもっとも近いのは、心に病を持つ人ということになります。要するに偏執質・症です。さらに進むと分裂病になります。
 恋愛でも、相手に対する執着心から、その相手に危害を加える者がいます。
 また、妄想に囚われ、相手構わず暴力を振るう者もいるわけです。
 時々、危険な行為に及ぶ者がいるのは事実ですが、それは病気によるもので、その人(患者)そのものが恐ろしい存在だとは見なされません。恐ろしいのは病気であって、人ではない。

 ところが、幽霊に対する態度は、病人に対するそれとは違っています。
 まず「存在を否定する」人が相当数います。
 心の病気の場合、病気は目に見えませんが、症状は明らか。言動がおかしかったり、粗暴な振る舞いがあったり、そこまで至らなくとも、日常生活が送れなかったりします。
 しかし、患部が目に見えないことで、その病因が「存在しない」と見る人はいません。
 ある程度、はっきりした症状があれば、「何か理由がある」と見なす方が客観的なものの見方ですが、霊に対する態度は違います。存在そのものを否定します。
 
 「霊が存在する」と考える人もいるわけですが、しかし、これまでは「恐ろしいもの」という位置づけが為されることが多かった。
 すなわち、精神病患者の振る舞いのみに着目し、その危険さを語るのと同じことをしているわけです。 
 怪談の多くは、ある場所で起きる危険な霊について語ります。その霊がどんなにむごたらしいことをする「恐ろしい存在」であるかを人に説くのです。
 しかし、霊は怪物ではなく、症状とみなせばどうでしょうか。
 病気の程度によっては粗暴になったりもするわけですが、本質はそこにはありません。
 もし病気であれば、病因を知り、それを改善することで、多く治癒します。
 ところが、この分野の専門家は、長らく患者を殴りつけて、遠ざけることを行って来たのです。除霊・浄霊の大半は、真言(呪文)やお経、祝詞を唱え、霊を祓うという手法によります。要するに、強い念を送り、その圧力で、霊を遠ざけているわけです。
 患者を拘束し、押さえつけることで、霊を追い出す手法もよく用いられます。
 目の前で、患者が暴れている状態なら、ひとまず落ち着かせることが必要ではありますが、そのこと自体は治療ではなく、病因が取り除かれるわけではありません。対症療法のひとつの手段ではありますが、治療ではない。

 ここで必要なことは、霊を怪物視するのではなく、「症状のひとつ」と見なすことです。
 霊がそのままの状態で留まる理由が執着心なら、それを解き放つ方法を探すことで、霊が先に進む道筋が開かれます。
 まずは「基本的に恐ろしいものではない」という認識を出発点にすることが肝要です。

 私は「霊能者」を否定していますが、その理由は、患者を殴りつけるのは「医師ではない」ということです。この分野では、「まじないによって病気を治す」という未開宗教のようなことが、いまだに行われています。
 何故、「恐ろしさ」ばかりが強調されるのかというと、ほとんどが「患者について何ひとつ知らない」ことによります。
 いつも書きますが、霊について語る評論家的霊能者は多いけれど、出して見せられる人はいません。説明のつかない現象を写した画像(心霊写真)すら、自分では撮れない人ばかり。 診察出来ないのでは、医師とは言えません。
 よく観察すると、自称「霊能者」は、その実「何ひとつ見えていない」ことが分かります。