日刊早坂ノボル新聞

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◎伊豆の旅館でのメッセージの解読

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◎伊豆の旅館でのメッセージの解読
 ここに出ている霊はこの地にいたものではなく、私に関わる者だろうと思います。
 前にも神社の窓ガラスで見たことがあります。
 すなわち私と行動を共にしているということです。

 私に悪縁をもたらすものではないような気がします。
 見た目が怖ろしいのは、虎の外見が獰猛なのと同じで、本来そういう性質だからということによります。虎はただ虎として生きているので、存在自体が怖ろしいわけではないのです。
 無防備に近寄ったりすると食われてしまいますが、どういうものかを知り、対処方法を間違えなければ、どうということもありません。
 目に映る霊の姿は、いずれもどろどろと怖ろしく見えますが、これは内面を包み隠す肉体を持っていないためです。

 この霊は何百年も前から、幽界に留まっていると思いますが、何故私にメッセージを送るのかが分かりません。この辺、私は修行をして来なかったので、はっきりとは解読出来ません。

 この霊には名前があり、「※※※※命」、最後が「みこと」になっています。
 (そう聞こえるのです。)
 それで、かなり古いものであると分かりました。何百何千の魂が寄り集まったので、今では神格化しているわけですが、それでも幽界の存在です。
 「神」とは「巨大自我」のことで、数多くの魂が集まった集合体ということです。

 ところで、息子の姿がガラスから消えているので、この霊は私と息子の間にいて、ガラスに映るように正対して立っていたことになります。すなわち、私のことを見ていたわけです。
 中央上部の大きな煙玉は窓ガラスにも映っているのですが、この位置関係を考えると、この霊は「空中に浮いていた」ことになります。

 上の部分に女が重なっていますが、そっちは、夜中に家人を脅かしたものです。
 この女性は海で亡くなっています。

 怖ろしいのは霊ではなく、何も見ようとせず、何も考えずに無防備に死んで、自我の暗闇の中に閉じ込められることです。
 死ぬにも準備が必要なのです。

 「死ねば終わり」などという馬鹿な話を信じたら駄目です。
 死んでも存在は残り、感情もあります。(無くなるのは、肉体と思考能力です。)
 自我がもたらす執着心から脱すれば、再び人間となり人生をやり直す機会が得られるわけですが、欲望に執着していると、幽界の闇に囚われたままになってしまいます。