日刊早坂ノボル新聞

日々のよしなしごとを記しています。

◎あの世サーフィン

◎あの世サーフィン

 家人が前に勤めていた小学校は、まさに「オバケ屋敷」でした。
 夏冬の休みになると、子どもたちは登校しなくなるのですが、誰もいないはずの教室や体育館で子どもの声が聞こえるそう。
 最初に気づいたのはPTAのお母さんたちで、教室でバタバタと足音が響くのを聞いた模様です。
 「それなら、子どもが入り込んだのではないか」と思う人もいるでしょうが、それが起きたのが夜の8時近くだったとなると、状況がかなり違うことが分かります。
 これと同じ事が頻繁に起きるとのことで、宿直当番の先生は、さぞ大変だろうと思います。
 夜中の見回りはやりたくないですね。
 数日前に、家人の今の学校でその話題が出たそうですが、経理の女性もそこに勤務したことがあり、「そういう子どもの姿を目にした」とのこと。

 ま、人によっては、まったく何も起きず、異変を感じない人もいます。
 そもそもそういう人の前には、現われません。

 家人本人も「説明のできないこと」を体験したと言います。
 授業中に、唐突に「せんせい」と呼びかける声が聞こえたので、「なあに?」と訊くと、生徒たちが答えません。
 空耳と思い、また授業を始めます。
 しばらくすると、また教室のどこかから、「せんせい」と呼びかけられました。
 「何ですか?誰が呼んだの」
 やはり生徒たちが顔を見合わせています
 「誰も言っていませんよ」
 「おかしいわね。幽霊かしら」(笑)
 しかし、数分後には笑えなくなったそう。
 もう一度、「せんせい」という声が響き、今度は教室の生徒全員がその声を聞いたそうです。

 「それなら、コップに水を入れて供えれば、大体静まる。それでダメなら、ジュースとお花を添えてご供養することだ」
 敬意を示し、皆で「穏やかな気持ちであの世に向かってください」と念じれば、不審な出来事は起きなくなります。
 子どもの幽霊は、その場所に縁があったわけでも、執着しているわけでもなく、子どもたちの放つ光に引き寄せられているだけです。行き場を無くしているわけですが、心が鎮まれば、進むべき方向は自ずから見えて来るのです。

 「じゃあ、別の学校の場合はどうすればいいの?」
 そちらの小学校は、沼を埋め立てて造成した土地に建てられたとのことで、いわくつき。
 毎年、春先に幾人かの先生が、怪我をしたりトラブルに巻き込まれるそうです。
 「それは考え過ぎの面がある。霊が直接的に悪影響を及ぼすことはほとんど無い。物理的に何かをやれることはないんだよ。せいぜい、電子機器の動作を少しおかしくしたり、ドアを開け難くする程度だ。事故や災難は、超常現象に結び付けて考えると、何でもかんでもそう思えて来る。さらに、実際に幾らかそういう要因が影響していたとすると、恐れたり不安を感じることで、悪影響が加速してしまう」
 「じゃあ、どうすればいいの?」
 「毎年、きちんとお酒を備えて、『使わせて頂きます』とお願いすることだ。地鎮祭を行えば、より結構。それで、こちら側の人間の心が鎮まり、妙な力が抜ける。すると、あちら側の方も気に止めなくなる」

 トランプやアベソーリに「絶大な権力がある」と思い込んで、先回りして忖度したくなる人が現実にいるわけですが、これを「普通の人間」と思い為すと、「ただのオヤジ」に見えて来る。
 実際、間近に寄れば、年相応のオヤジです。
 もはや百メートルを20秒でも走れない。
 それと同じ。

 「それが何かということについて無理やり説明をこじつけたり、無視したり、それとは逆に重く受け止め過ぎたりするのは、どれも適切ではないんだよ。そこに何らかの力を感じるのであれば、さらっとやり過ごせばそれでよい。ご供養をすれば、そのことで自分が描いた呪縛から解放される。簡単なことだよ」
 コップの水をお供えして、『成仏してください』と念じることなど、容易いことのはずですが、大半の人はやりません。
 「そんなもんだ」と思えば簡単なのに、実に不思議です。
 「祟り」とか「触り」とかは、さらっと受け流せば、何でもないことが殆どです。

 ところで、昨日は病棟で救急搬送騒ぎがあったのですが、帰宅してみると、自分のすぐ後ろにひとの気配を感じました。いつもとは違う重い感触です。
 「こりゃ拾って来たか」
 ひとの生き死にの懸かる局面には、あの世の住人がそれと気付きわっと寄って来ます。
 それがいわゆる「お迎え」「死神」で、神ではなく、幽霊ですね。
 私も実際にこの眼で見たことがあります。
 そういうのが、「生き死に」の気配を感じて寄って来たわけですが、ふと横を見ると、煙玉や光り玉を沢山発しているヤツがいた。
 「そこで、そっちに乗り換えたというわけか」
 ちょうどその時、家人から電話が掛かって来ました。
 「駅まで迎えに来てくれない?」
 こういう時は2つ返事で行きます。家人を拾い、帰宅途中にスーパーに向かいます。
 夕方ですが、まだ沢山の人がいました。

 「ああ良かった。これで離れる」
 実際、つい数分前まで感じていた不安感は消えています。
 特別なお祓いなどしなくとも、ちょっとしたことで悪縁は離れて行きます。
 ちなみに、私を離れて、「他の誰かに取り憑いた」ということではありませんので念のため。
 そういうのはただの自称霊能者の商売道具で、霊に思考能力はありません。
 「こいつに何かしてやろう」という思考そのものが無いのです。

 1本の枝は掴めるのですが、沢山見えると、どうしてよいか分からず手を離してしまいます。
 それと同じ感覚だろうと思います。

 こういうのは、信じない人はまったく信じません。
 そこで「いや存在するのだから、実際にこういうことが起きるのだ」などと言うつもりはまったくありません。
 実際に、起きない人には何も起きませんので、「ない」のと同じです。
 分からないものを想像するより、「ない」と見なして振舞うほうが簡単です。
 その方が幸せに生きられる。

 他人が信じるかどうかはどうでもよい話で、自分自身がするするとやり過ごせるようになればよいのです。

 追記)
 自動車の構造を理解し、組み立てられなくとも、乗ることは出来る。運転の仕方を習い覚えればよいわけです。ところが、なぜ車が動くのか説明出来ないから、「(合理的に)説明ができない「と言うのはまだしも、「車は存在しない」と言い張る人がいます。
 それとは逆に、車を絶対的存在だと見て、「トイレに行くのも車で行こうとする」人や、車の外観だけを見て「どんな形状か」だけを語る人がいます。
 以上は総てたとえですが、最後のは要するに「霊とは(総てが特別な)恐ろしいもの」と見なすということです。
 それらの考え方の総てが誤りで、「してよいこと、出来ること、してはならないことをわきまえて、上手に対処する」のが正しい考え方だと思います。