日刊早坂ノボル新聞

日々のよしなしごとを記しています。

◎扉を叩く音 (続)

◎扉を叩く音 (続)
 「毎年、秋から冬にかけて、深夜、玄関の扉を叩く音が聞こえる」話の続きです。
 今では季節には関係なく、玄関の中にも出入り自由になっています。

 5月24日午後3時35分の記録。すなわち「たった今」起きたばかりの話。
 ちょうど「死の国」の下書きをしていた。

 霊魂のサイクルを、自我の生成と消滅の過程として捉えると、ひとの誕生から死までは、半分の意味しか持たない。
 すなわち、死は「折り返し地点」で、今度は自我を解体していく過程が待っている。
 肉体を持つ間は、本人の意思や感情に係わらず、理不尽なことが起きる。
 生まれながらに幸運な境遇の者とそうとは言えない者がいるし、努力の対価として成果は平等とは言えない。
 だが、人生のツケは死後に払うことになる。
 生き方や心の成熟度に応じた試練が幽界には存在する。
 その意味では、自我の生成・消滅のプロセスとして眺めれば、ひとは平等なものだと言える。

 この部分を書いていると、部屋の外の廊下で「どんどん」と足音が響いた。
 扉のすぐ外だから、聞き間違いではない。
 間違えようが無いのだ。

 「うひゃひゃあ。冬の危機を乗り越え、沈静化したと思っていたが、そうではないのか」
 もしかして、ずっとこのままの状態が続くのではないか。
 数度、拍手を打った。

 音が悪い。
 「ベタ」「ベタ」という音の時には、「近くにいる」という意味だ。
 光も音も、ひとの検知し難い領域にいるわけだが、当然のごとく影響が生じる。
 繰り返し拍手を打つ。
 ま、ここはいわゆる「通り道」に当たっているから、多少のことは仕方がない。
 ご供養をして、祈念することはひとつだ。

 「俺には助けられません。生きている者にちょっかいを出さないでくれ」
 お線香をあげて、鎮まってくれると良いのだが。

 ちなみに、文面から想像するより、はるかに大きな音だ。
 ついにドアを開けて入って来るのかと思ったほど。
 繰り返すが、気のせいとか、聞き間違いでは有りようが無い。
 聞く耳があり、自分を見てくれるから、存在を示すのだろうが、生きている者には日々のやるべきことが沢山ある。

 さて、暮らしの中で「ざわっと背筋が寒くなる」ことがあると思いますが、そういう時には、拍手を打つと概ね鎮まります。
 咄嗟の場合は、「私には助けられません。傍に来ないで下さい」と声に出して言うことです。
 鈴(りん)を鳴らしても良いのですが、こちらは音が響くので場所を選びます。
 何もない穏やかな暮らしが一番で、多少のことがあっても「気のせい」で済ませられるのが望ましいです。

 追記)30度ほど拍手を打ち、お線香を上げると、ようやく音が良くなりました。
 「パンパン」と軽い音がしてくれるとほっとします。