◎この一週間の出来事を整理すると
かなり昔から、幾度と無く「亡者に追い駆けられる」夢を観ていたが、数年間から「不動明王に救われる」結末になって来た。
不動明王の姿をした仏さまが現実にいるわけではなく、あくまで「衆生救済」を分かりやすく表現したものだ。
「亡者が追い駆けて来る」とは、まさに今の私の境遇で、環境の条件が合うと、必ず幽霊が顔を出すようになっている。
日光が交錯するところがポイントのひとつで、要するにガラスに景色が映った時があてはまる。なお鏡は「反射」で「交錯」ではないから写らない。
たまたま有間ダムに「雨見」に行ったのだが、偶然、ぞろぞろと幽霊が写った。
自殺霊が多く、この手のを見慣れた私でもさすがに気色悪い。「助けて」と叫ぶ若い女性の声も聞こえるから、一層、嫌な気分になる。
まさに「後ろから亡者がひたひたと追って来る」気分だ。
しかし、よく考えると、私に取り付きたいのでもなければ、恨みがあるわけでもない。「助けて欲しい」だけだ。
いつも亡者に背中を向けて逃げて来たが、くるっと反対側を向いたらどうだろう。後ろには不動明王が控えているし、既に「ご守刀」も持っているのだから、不安は無い。
「じゃあ、助けてやるか」
そう考えて、翌日も有間ダムに行った。
「俺には助けられないが、道に立って案内をすることなら出来る。5丹米發剖疉佞ないようにするなら、連れて行く」と声に出して言った。
その後、お焼香をしたが、やはりこの日も写真に写った。
曇りだったから鮮明ではないが、初日に写った女性のひとりが、この日は笑顔(キモい)で写っていた。
何百と集まっているから、1、2回では到底無理だ。
そこで「とりあえず今回は3回続けよう」と思い、木曜にも同じ場所に行った。
3度目にも幾つか写ったが、このうち、最も分かりよいのが中年の男性だった。
ダムからいつもの神社に直行したが、想定した通り、男(たぶん同一人物)が付いて来ていた。
これで分かったのは、こちらが受け入れる準備をして、きちんと向き合えば、対話が成り立つということだ。
実際に話をするわけではないが、意思を通じ合わせることが可能ということ。
もちろん、ヤクザに対するのと同じで、きっちり間に線を引いて、「この線から互いに出ないように」と申し合わせる必要がある。
近くに寄られ、手を掛けられてしまうと、相手(霊)に悪気が無くとも、こっちは体調を崩す。寄られると、私の場合は、必ず狭心症を起こすようなので、リスクもある。
だが、逃げるのでもなく、闇雲にお経や祝詞を唱えて追い払おうとするのでもなく、きちんと正面から相対することで、心持がだいぶ変わる。
今はこの手の現象を見ても、何とも思わなくなった。
ちなみに、画像に写るかどうかは、日光の赤外線が関与しているのだから、「赤外線ライトを照射すれば写る」可能性があると考え、注文したところだ。
環境が整えば、あとはカメラの前に立って貰うことで、「いつでも姿を写せる」、すなわち「存在を証明出来る」ことになる。
その点、私の周りには先方からわんさか寄って来るから、問題は無い。
ほとんどの人は有機体としての「死」を「終わり」と考える。
ところが、自我の生成と消滅を1タームとして見なすと、有機体としての「死」は、単なる「折り返し地点」に過ぎなくなる。
肉体が死んでも、しばらくの間、自我は残り、時間の経過と供に、解体し消滅して行く。その「自我の消滅」が本当の「終わり」だ。
今はここまで到達したが、さらに重要なことは、「幽界の霊(幽霊)」、「霊界の霊」とも「物質として存在している」ということだ。
煙玉や幽霊の脇に「影が出来る」ことがあるので、それと分かったのだ。
たぶん、いずれそのことも実証出来る。
追記)画像をひとつ追加しました。日曜に昼寝をしたところ、延々とこの箇所を見せられました。