日刊早坂ノボル新聞

日々のよしなしごとを記しています。

◎逆モラハラ

◎逆モラハラ

 日本で不思議なことのひとつは、「ある夫婦」のダンナさんの奥さんへの態度だ。

 コロナ禍の下、国民皆が行動を自粛する中、外に出歩く奥さんを野放しにしている。

 やはりダンナさんの立場上、皆から追及されるわけだが、しかし、「女房にはきつく言い聞かせて置きます」と言えば、大方の人は納得する。
 どこの家庭でもよくあることだからだ。

 「不思議なこと」というのはここだ。

 「なぜやめろと言えない」のだろう。

 (それ以前に、前もって「少し行動を慎め」と言って置くべきだが。)

 

 理由はひとつ。

 奥さんの実家に「少なくない資金援助を受けている」ということだろう。

 (勝手な憶測なので、念のため。)

 これ以外に、奥さんが何ら「制約に囚われない振る舞い」をしても、「やめとけ」と言わない・言えない理由はない。

 奥さんに言えないから、あとは居直るしかないわけで。

 もしそうなら、奴隷に近く、少しお気の毒なような気がする。

 

 この奥さんは「良かれ」と思いついたことを、そのまま行動に移すようだ。基本は善意なのだが、「善意で振る舞うことが、必ずしも善ではない」ことを知らない。

 これは裕福な家庭に育つ子弟に共通の傾向だ。

 ちなみに、この場合の「裕福」とは、「代々医者の家で」「上場企業の社主で」程度の話ではないので、念のため。

 

 この数年、この奥さんの振る舞いに多くの国民があきれ、イライラさせられて来たと思うが、それも当然だ。

 「こういうことをやってはいけない」という道徳的制約(または抑制)に、この奥さんはまったく従わず、かつダンナは盲目的にそれに追従する。

 だからイライラさせられる。

 普通の家庭では有り得ない話だから、それも当然だ。

 そうなると、結果的に、夫婦の振る舞いは「一般国民(下々)に対してのハラスメント」になっているのではないかと思う。

 

 今の定義では「ハラスメント」は「受ける側が苦痛を感じたら、それはハラスメント」と言う解釈になっている。

 ちなみに、この考え方は間違いだと思う。物事の一側面しか見ていない。片側だけの見方で良いのなら、某隣国の日本への言い分は総て正しいことになる。だが、もちろん、誤りだ。

 人権論者の過ちは、「ひとりにとっての人権」のみを注視することだ。

 「皆が共に享受する権利」と見なすなら、お互いの立ち位置を公平に見渡す必要がある。

 態度の悪い若者を叱る時に、若者がそれを「嫌がらせ」と感じるかどうかはどうでもよい。若者が振る舞いを直し、成長できるかどうかの方が重要だ。

 受け手だけでなく行為者の意図や目的を視野に入れる必要がある。相対的な話で、判断が難しいから、「受け手が感じれば」みたいなしきりになるのだが、しかし、人と人との関りは、そもそも曖昧で面倒くさいものだ。

 

 脱線したが、今の定義なら、この奥さんの行為は、十分すぎるほど「逆モラル・ハラスメント」になっている。

 「モラハラ」は道徳性を盾にとって、相手に嫌がらせをすることだが、この場合は道徳性に「何ら従わない」ことで、相手をイライラさせる。

 かつ、本人は何ひとつそのことに気付いていない。

 

 「銀座に出られないのなら、大分に行けば良いじゃない」

 (あの「パンがないなら、お菓子を食べればいいじゃない」のもじりだ。)

 こういう自己解釈を奥さんはそのまま行動に移すわけだが(あくまで例え話だ)、世間の者はそうは思わない。だからイライラさせられる。

 ところで、こういう定義解釈は、ダンナの最も得意とするところだ。

 つい最近使った釈明はこう。

 ダンナさんが国民に対し、花見を含めた「行動の自粛」を求めているのに、奥さんは芸人を集めて食事会をしていた。このことについて、ダンナはこう言った。

 「公園で花見をしたわけではなく、レストランだった」。

 普通は「人集まりが感染の土壌となるので、場所が問題なのではなく、集ること自体を控えるべき」と見なす。

 その点、「逆モラハラー」は、常識に囚われず、ものごとを常に善意で解釈する。

 善人は、自分自身に対し最も優しいから、こういう理屈は、本人にとっては当たり前だ。

 そうなると、ある意味、似た者夫婦だと言える。

 

 でも、そろそろ奥さんも自分が「逆モラハラ」を撒き散らしていると気付くべきだ。

 現状では「特権階級」の振る舞いと変わりない。