





◎説明に困る現象(534)
買い物に出掛けた折に、ふと気になることを思い出し、神社に参拝することにした。
前回、外鳥居の外側にある道路で、高齢の男性が道に両手をついて土下座をしていた。
「許してください。お願いします」
男性は目に見えぬ「何か」に向かい、必死で謝り、懇願していた。
「あれは気の迷いか、それとも」
以前、自身の夫が五十台の半ばで急逝すると、叔母はそれまで住んでいた家を売り、ローンを精算して、娘と一緒にマンションで暮らすようになった。
そこで叔母は心身に変調を来した。
叔父は闘病生活に入り、半年ももたずに亡くなったし、それまで郊外に住んでいたのに、都心に移り住むようになったので、環境が変わりすぎたのかもしれん。
「隣の人がこの部屋を盗聴している」
「宇宙人がいる」
叔母は夜中に起きだして騒ぐようになったのだ。
娘の手に負えなくなり、私も幾度か真夜中に家に呼ばれた。
あの時、他の者には何も聞こえず、感じないが、叔母にとってすれば、「物音」や「話し声」が現実として存在した。
その後、叔母は再び地方の郊外で暮らすようになったが、環境を替えると、次第に見たり聞いたりしなくなった。
叔母のケースでは、おそらく「急に夫を亡くした」ことが背景にあるのだろう。
あれと同じことが、先日の高齢男性にも起きていたのかどうか。
それとも、私と同じことが起きていたのかどうか。
私の場合は、死の間近なところまで行ったのがきっかけだ。
心停止まで到達しており、それ以後も障害を持つ身となっている。
死期の迫った者は様々な妄想や幻覚を観るし、幻聴を聞く。
さらに、時折、「心身の不調が原因」とは言い切れぬ人影が写真に写ることもある。
多くは「気のせい」で「想像や妄想」だと思うが、しかし、中には「どうにも説明のつかない現象」も混じっている。
あの高齢男性が実際に「何か」を見ていた可能性はあると思う。
昼日中、道を歩いている時に、男性は「何か」に遭遇した。
一時期、叔母が変調を来したのは、布団に入り一人であれこれ考えている時が多かった。
こちらは昼日中の出来事になる。
いずれにせよ、本人にとっては「現実」そのものだ。
私は病院にベッドに座っている時に、「この世ならぬ者」の二人組の訪問を受けたが、二人が醸し出す空気は到底、言葉で表現できぬほど怖ろしかった。
さて、その辺で向き直り、参拝することにした。
移動しては撮影し、また移動しては撮影する。比較可能なように、常に同じ位置で、各地点で二枚ずつ撮影する。カメラを構えてシャッターを切るまでの時間が六秒から八秒で、それ以外は移動時間になる。
この日の訪問目的は、前回の確認だけだったので、境内に入ってからは、心がほとんど空になっている。撮影はほぼルーティン化しているので、流れ作業的に移動撮影をした。
なお、当初はるか遠くに参拝客が一人いたようだが、私が神殿前に上がる前にどこかに去った。以後は、前後四五十メートルの間は、私一人だった。
車に戻り、画像を開いてみると、どうにも「説明に困るもの」が含まれていた。
掲示画像の④には、私の真後ろ、ほぼ一㍍程度の位置に人影が写っている。
写っていたのはこの画像だけだ。
私の参拝前や参拝後には、まったくそれを示すものは無い。
ま、当たり前だ。あの時、周囲に人はいないことを私自身がしっかり確認している。
だが、これは別の意味で「説明に困る」画像だ。
その場に立っていない者には、「単に後ろから他の参拝客が来たのが写り込んだ」ように見えるだろうからだ。
今の時勢なら、前の客の背後一㍍のところまで近づくかどうかという点だけだ。
手を伸ばせばほとんど届く距離になるわけだが、他に人がいない状況でその間合いになることは少ない。
こういう状況は、時々起きる。
滅多にないケースだが、目視出来ない人影が実際にそこにいることがある。
神殿前で幾度か起きた事例は、最初は「人影が寄り添うように立つ」。
次に「手を伸ばして、人の体のどこかに触れる」というものだ。
怖いのは、この次からだ。
眼に見えぬ「何か」は、人間の体に手を触れると、生身の人間によく似た服装に変わる。
「前の人間」だけでなく、「直前までその場に居た人間」のこともある。
実際に画像に残ったのはここまでだが、この次の段階は容易に想像出来る。
最後は、たぶん、「前の人間とまったく同じ服装、容貌になる」のだろう。
ここまで行ければ、人と「何か」が「同化・合体する」ステップに入れる。
この「同化・合体」は、従来の言い方をすれば、「憑依する・される」と言うことと同じだ。
「この世ならぬ者」は、専ら人の心に入り込み、人を操り、自分のものにしようとする。
こういうのを人間に悟られると、同化・合体に進めぬから、極力、それとは気付かれぬように近寄ることになる。だから、ほとんど目立たない。
その場にそぐわない出方をすることは少ない。
いつも書くが、「この世の者ならぬ何か」が多く見られるのは、廃屋やトンネルなどの「スポット」ではなく、生きた人間の周囲になる。
もちろん、この日のものがそうだと言うわけではない。画像だけ見れば、ごく普通の画像だし、状況を知る者は私一人だから、証拠にならない。
他の人にとっては「想像や妄想」と同じ。
だが、こういうのは私一人が理解し、「気を付ければよい」という性質のものだ。
私は「標識」を下げて歩いているようなものなので、外に出歩くだけで、わっと飛び付いて来る。
この辺を怠らぬので、最初に「お迎え」に会ってから五年以上、この世の命を永らえている。