日刊早坂ノボル新聞

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◎陰の歴史

陰の歴史

 前田利家は終始、羽柴秀吉の理解者で、秀吉の最大の味方だった。

 その利家が、晩年に言い残した(か過去帳に書いたかした)のは、「秀吉の左手には指が六本あった」ということだ。これはしっかりした記録に残っている。

 利家は秀吉のことを怖れてはいただろうが(狂人なので)、だが秀吉に対し敵意も反抗心も示したことがないので、「根拠のない戯言」ではなかったと推定される。

 

 中世末期では地域間の人の移動が少なく、相対的に「血が濃く」なりがちだった。このため、遺伝子異常のため指が六本ある人が生まれることは、割合よくあったようだ。

 どの文書だったかは忘れたが、「そういう子どもが生まれたら、物心がつく前に余分な一本を切り取る」由が書いてあった。

 

 「秀吉の指が六本あった」ことは、割と昔から世間に広く知られていたようだ。

 江戸の中期以後に『太閤記』が形成されると、秀吉をやたら持ち上げるようになり、都合の悪い記録は抹消された。

 だが、奥州はかつて全域に渡り上方軍に殲滅され、皆殺しにされた側だから、密かに「羽柴秀吉は化け物だった」という話が言い伝えられた。

 東北地方には「秀吉の指が六本あった」だけでなく、「眼の玉それぞれに瞳が二つずつあった」といった伝説が残っている。

 驚いたことに、それは戦前くらいまでは、言い伝えとして残っていた。

 ま、「瞳が二つずつ」は「とんでもない残酷なヤツ」という気持ちと、「手の指が六本あった」という利家の話を合わせて、次第に作り上げられたものだろうと思う。

 

 実際、晩年の秀吉は気まぐれに人を殺したから、当時は「仕返し」を心に抱いていた者が多かったことだろう。

 しかし、ひとは真実を追究することよりも、よさげな作り話の方を好む。

 羽柴秀吉「像」の大半が『太閤記』によるもので、要するに作り話であり作文だ。秀吉は「人の好い猿」ではなく「狡猾卑怯な禿鼠」だ。

 

 隣国の歴史観などを見ると、まさに全編が自己都合による作り話になっている。あれと同じことが、ある程度、我が国を含め世界各地で起きていた・いるのだろう。

 

 追記)「あと一週間」かもしれぬので、平気で悪態を吐くが、世間によくいる「秀吉好き」を見ると、申し訳ないが、「上っ面をだけ見て、それを信じる目出度い人」だと思ってしまう。

 美談の大半は実態とかけ離れた作り話になっている。

 出典等はご自分でどうぞ。不行跡は割と簡単に見つけられる。

 「両眼に瞳がふたつずつ」を除き、他を調べるのは難しくない。